リトアニア史余談23:1918年2月16日/武田充司@クラス1955
記>級会消息 (2013年度, class1955, 消息)
第1次世界大戦が勃発してドイツがロシアに宣戦布告をすると(※2)、まもなく戦火はリトアニアにも及び、1915年秋、ドイツ軍はリトアニア全土を掌握した(※3)。1917年3月、「2月革命」によってニコライ2世が退位し、ロシアに臨時政府ができると、レーニン夫妻がスイスから密かに帰国し(※4)、革命の同志たちと合流して「4月テーゼ」を発表した。一方、1917年4月6日、米国がドイツに宣戦布告した。
こうした状況の変化の中で、この年(1917年)の8月、リトアニア駐留ドイツ軍は、自分たちの政策や指示を効率よく実施させるために、リトアニア人による傀儡的組織の必要性を感じ、「リトアニア評議会」の結成を認めた(※5)。
ところが、この年の秋、「10月革命」によってロシア帝国は崩壊し、レーニンを中心とするボリシェヴィキによる新政権が誕生した。そして、新政権は即時講和や民族自決などの新政策を掲げた「平和に関する布告」を採択した。その結果、1917年12月15日、ドイツとソヴィエト政権の間で休戦協定が成立し、両国はブレスト・リトフスク講和条約締結に向かって動き出した。
情勢が自分たちに有利に展開していると判断したドイツ政府は、1917年12月1日、リトアニアがロシアから独立することを認める一方で、ドイツ帝国の一員となることを求める文書をリトアニア側に示し、この方針に従ったリトアニア側の決議書を作るよう要求してきた(※6)。これをうけて、リトアニア評議会は「決議書」を作成し、12月11日、ドイツ側に手渡した。この決議書の中で、ヴィルニュスを首都とする独立国家リトアニアの復活が宣言されていたため、これが、リトアニアの独立回復決議の最初のものとされている。しかし、ドイツ側との妥協の産物であったこの「決議書」が公にされると、リトアニアの世論は失望し、激しく反発した(※7)。この世論に押されてリトアニア評議会は分裂し、急進派の4人が評議会を去った。
しかし、ドイツ政府にこれ以上譲歩させることは不可能と考えた議長アンタナス・スメトナは、リトアニア評議会の崩壊を回避するために辞任し、それと引き換えに、急進派の4人を評議会に復帰させた。そして、新議長ヨナス・バサナヴィチウスの下で、ドイツ側との妥協を排した独立宣言案が作成され、1918年2月16日、午後12時30分、ヴィルニュスのピリエス通り26番地のカフェの2階にあったリトアニア評議会の会議室で、20人の評議員全員によって署名された。
しかし、リトアニアを占領していたドイツ軍当局はこの宣言を認めず、リトアニア評議会に対して、前年12月11日提出の「決議書」に戻ることを厳しく要求した。そして、この宣言文を載せた1918年2月19日発行のリトアニア評議会の新聞リエトゥヴォス・アイダス(※8)はドイツ軍当局によって全て没収された。
この時、ブレスト・リトフスクにおける講和会議はトロッキーの強硬な態度によって中断し(※9)、独墺軍は戦闘を再開してペトログラード(※10)に迫っていたが、2月23日、労働赤軍の奮戦で独墺軍は撃退された。こうした流動的な状況の中で、小国リトアニアの問題に関心を示す国など殆どなく、独立宣言によって何も変わらなかった。むしろ、駐留ドイツ軍当局とリトアニア評議会の関係は以前にも増して厳しいものとなった。
2013年11月16日 記>級会消息