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  • リトアニア史余談23:1918年2月16日/武田充司@クラス1955

     1918年2月16日、首都ヴィルニュスのピリエス通り26番地の建物の2階で、リトアニア評議会のメンバー20人が独立宣言に署名した。

    これが今日のリトアニア共和国の出発点であり、この事実に基づいて、2月16日はリトアニアの独立記念日となっている(※1)。しかし、この独立宣言に至る道筋は曲がりくねった険しいものであった。そればかりか、独立宣言によって何ら明るい展望が開かれたわけでもなく、むしろ、それによってリトアニアは新たな困難に直面した。振り返ってみれば、この独立宣言はその後の長い独立回復への道程の一里塚であり、最初の一歩に過ぎなかった。

     第1次世界大戦が勃発してドイツがロシアに宣戦布告をすると(※2)、まもなく戦火はリトアニアにも及び、1915年秋、ドイツ軍はリトアニア全土を掌握した(※3)。1917年3月、「2月革命」によってニコライ2世が退位し、ロシアに臨時政府ができると、レーニン夫妻がスイスから密かに帰国し(※4)、革命の同志たちと合流して「4月テーゼ」を発表した。一方、1917年4月6日、米国がドイツに宣戦布告した。

     こうした状況の変化の中で、この年(1917年)の8月、リトアニア駐留ドイツ軍は、自分たちの政策や指示を効率よく実施させるために、リトアニア人による傀儡的組織の必要性を感じ、「リトアニア評議会」の結成を認めた(※5)。

     ところが、この年の秋、「10月革命」によってロシア帝国は崩壊し、レーニンを中心とするボリシェヴィキによる新政権が誕生した。そして、新政権は即時講和や民族自決などの新政策を掲げた「平和に関する布告」を採択した。その結果、1917年12月15日、ドイツとソヴィエト政権の間で休戦協定が成立し、両国はブレスト・リトフスク講和条約締結に向かって動き出した。

     情勢が自分たちに有利に展開していると判断したドイツ政府は、1917年12月1日、リトアニアがロシアから独立することを認める一方で、ドイツ帝国の一員となることを求める文書をリトアニア側に示し、この方針に従ったリトアニア側の決議書を作るよう要求してきた(※6)。これをうけて、リトアニア評議会は「決議書」を作成し、12月11日、ドイツ側に手渡した。この決議書の中で、ヴィルニュスを首都とする独立国家リトアニアの復活が宣言されていたため、これが、リトアニアの独立回復決議の最初のものとされている。しかし、ドイツ側との妥協の産物であったこの「決議書」が公にされると、リトアニアの世論は失望し、激しく反発した(※7)。この世論に押されてリトアニア評議会は分裂し、急進派の4人が評議会を去った。

     しかし、ドイツ政府にこれ以上譲歩させることは不可能と考えた議長アンタナス・スメトナは、リトアニア評議会の崩壊を回避するために辞任し、それと引き換えに、急進派の4人を評議会に復帰させた。そして、新議長ヨナス・バサナヴィチウスの下で、ドイツ側との妥協を排した独立宣言案が作成され、1918年2月16日、午後12時30分、ヴィルニュスのピリエス通り26番地のカフェの2階にあったリトアニア評議会の会議室で、20人の評議員全員によって署名された。

     しかし、リトアニアを占領していたドイツ軍当局はこの宣言を認めず、リトアニア評議会に対して、前年12月11日提出の「決議書」に戻ることを厳しく要求した。そして、この宣言文を載せた1918年2月19日発行のリトアニア評議会の新聞リエトゥヴォス・アイダス(※8)はドイツ軍当局によって全て没収された。

     この時、ブレスト・リトフスクにおける講和会議はトロッキーの強硬な態度によって中断し(※9)、独墺軍は戦闘を再開してペトログラード(※10)に迫っていたが、2月23日、労働赤軍の奮戦で独墺軍は撃退された。こうした流動的な状況の中で、小国リトアニアの問題に関心を示す国など殆どなく、独立宣言によって何も変わらなかった。むしろ、駐留ドイツ軍当局とリトアニア評議会の関係は以前にも増して厳しいものとなった。

    〔蛇足〕
    (※1)「余談:ヴィルニュスのピリエス通り」参照。
    (※2)ドイツがロシアに宣戦布告したのは1914年8月1日である。これによって、ロシア帝国下で圧制に苦しんでいたリトアニアの知識人の間で自治獲得運動が燃え上がり、親ドイツ派と親ロシア派が争った。東プロイセンを含むリトアニア人の統一自治国家をロシア帝国内に建設することを条件にドイツと戦うロシアを支持しようという「琥珀宣言」なども発表された。
    (※3)このとき、リトアニアの一部の民族主義者はドイツ軍を解放軍と勘違いして歓迎し、自由主義的活動を始めたが、直ぐにドイツ軍によって弾圧された。
    (※4)この時、ドイツ政府が、敵国ロシアを撹乱するために、レーニン夫妻の帰国を密かに支援した。
    (※5)ドイツ軍当局は、先ず、自分たちに協力的な人物を使って数百人規模のリトアニア人の協議会をつくらせ、1917年9月、この協議会の決議によって20名からなる「リトアニア評議会」が設置された。しかし、ドイツ側の思惑に反して、この評議会は、リトアニアの独立を目指す政治的機関として、その後重要な役割を果たすことになる。議長のアンタナス・スメトナ(Antanas Smetona)は、過激派と保守派の対立を調整し、ドイツ軍当局と巧みに折衝できる調整型の人物として選ばれた。「リトアニア評議会」はリトアニア語で「リエトゥヴォス・タリバ」(Lietuvos Taryba)というが、「タリバ」(Taryba)と省略された呼び方で親しまれている。
    (※6)ドイツ政府は、ブレスト・リトフスク講和条約において、リトアニアがロシアからの独立を宣言してドイツの保護を求めているという主張をするために、この決議書をリトアニア評議会に作らせた。
    (※7)ドイツ側は、当然のことながら、この決議書の中で、リトアニアがドイツ帝国の一員となると宣言することを要求し、書かせていた。
    (※8)リエトゥヴォス・アイダス(Lietuvos Aidas)は「リトアニアのこだま」“Echo of Lithuania”という意味。
    (※9)実質的に戦勝国であったドイツは、非常に厳しい条件をソヴィエト政権に押しつけたため、条約交渉は難航した。ソヴィエト政権の代表トロッキーは「戦闘はやめるが、講和はしない」という強硬な態度とったため、ドイツ側が激怒して休戦協定を破棄し、ペトログラードに進撃した。
    (※10)ペトログラードは当時の呼称で、現在はサンクトペテルブルク。(2013年11月記)
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