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  • リトアニア史余談22:琥珀のロザリオ/武田充司@クラス1955

    中世、バルト海は「北の地中海」といわれ、ハンザ商人の大型船が行き交う交易の海であった。

    しかし、王侯貴族が好む高価な貴重品が中心の地中海貿易と違って、バルト海貿易の主要物品は、生活必需品や小麦や木材といった嵩張るものが中心であった(1)

     ハンザ同盟の最盛期は14世紀初頭から16世紀初頭までの約200年間といわれているが、就中、14世紀後半はそのピークを迎えた時期であった。1309年に本部をポーランド北部のマリエンブルク(2)に移したドイツ騎士団(3)は、この時期に、ハンザ商人のバルト海貿易を利用して大きな利益をあげ、それによって軍事力を強化したという側面があった。そして、その軍事力によって、2つの隣国リトアニアとポーランドが長い間苦しめられたのだ。

     ドイツ騎士団はポーランド北部に進出した当初から、征服した地域の開墾事業を組織的に進めていたが、14世紀に入ってその事業は本格化した。騎士団領となった植民地やポーランドで生産された小麦は、森林地帯で伐採された木材(4)とともに、ポーランドの動脈ヴィスワ川(5)の水運によってバルト海東岸の港湾都市ダンツィヒ(6)に集められ、ヨーロッパ各地に輸出され、ドイツ騎士団の財政を支えた。

     しかし、14世紀におけるドイツ騎士団の繁栄の源泉は小麦だけではなく、むしろ、琥珀の輸出を独占したことにあったと歴史家は述べている。確かに、琥珀は古代ギリシャ・ローマ時代から、この地域に富をもたらした貴重な輸出品であったのだが(7)、それにしても琥珀が、小麦と並ぶ輸出品として、ドイツ騎士団に巨大な富をもたらしたとは信じ難いのだが、その謎を解く鍵は当時のヨーロッパで流行した「琥珀のロザリオ」にある。

     中世のヨーロッパ人は「琥珀は神の存在を示すもの」と信じていたというが(8)、これが「琥珀のロザリオ」に特別な宗教的価値を与えたばかりでなく、その美しい装飾性と、古代から信じられていた琥珀の不思議な薬効(9)が一体となって、「琥珀のロザリオ」に対する熱狂を生み出し、「琥珀のロザリオ」の価値を異常なまでに高めた。

     ロザリオを作るために生まれた巨大な琥珀需要に着目したドイツ騎士団は、サンビア半島(10)における琥珀の採掘と輸出を独占事業として厳しく規制し、違反者を取り締まるために琥珀専門官(11)を置いて監視した。こうした琥珀の統制にはハンザ商人も加わり、ハンザ同盟諸都市に琥珀加工業組合(ギルド)がつくられた(12)。こうした加工業者は当初主としてロザリオをつくっていたが、やがて、その技術が成熟し、17世紀から18世紀にかけて素晴らしい琥珀の家具や彫刻品を生み出すヨーロッパの伝統工芸技術へと発展した(13)

    〔蛇足〕

    (1)バルト海を経て西欧に向かう物品には、小麦や木材のほかに、蜜蝋や亜麻、そして、ロシアのノヴゴロドが中心となって扱っていた高級な毛皮などがあった。これに対して西欧からは、フランドル地方の毛織物、ニシンなどの魚類、塩、鯨油、鉄や銅などの金属、そして、当然のことながら、ワインなどがあった。嵩張る物の中にはビールがあったが、北ドイツのビール生産とその技術はハンザ商人の活躍によって発展したともいわれ、今日、我々が慣れ親しんでいるホップ入りの苦いビールは、当時の長距離海上輸送に耐えるように工夫されたものであった。

    (2)マリエンブルク(Marienburg)は、現在、マルボルク(Malbork)と呼ばれるポーランド北部の都市で、ドイツ騎士団の本拠地となった壮大な城郭はユネスコの世界文化遺産に登録されている。

    (3)ドイツ騎士団については「余談:ピレナイ砦の悲劇」の蛇足(1)を参照されたい。

    (4)ドイツ騎士団が征服したプロシャ(東プロイセン)や、それに隣接するポーランド北東部からリトアニア南部に至る広大な森林地帯は、良質な松材の供給地であった。木材は典型的な嵩張る商品であったが、ヴィスワ川の水運とハンザ商人の大型船がこれを国際的な商品にした。この地方の松は日本の杉のように真っ直ぐに育って巨木となるので、ヨーロッパでは船舶建造の材料として大きな需要があった。

    (5)ヴィスワ(Wisla)川はポーランドの古都クラクフから北上してワルシャワを経て、ポーランド北部の主要都市プオツクやトルンを通ってグダンスクの東でバルト海に注ぐポーランドの大河である。

    (6)ダンツィヒ(Danzig)は、ここを長年支配したドイツ人による呼称で、現在はポーランドの港湾都市グダンスク(Gdansk)となっている。

    (7)「余談:バルト海の琥珀と琥珀の道」参照。

    (8)ヨーロッパの人々は先史時代から琥珀のもつ魔力を信じていたから、こうした古い文化がこのような形で中世に再現したのであろう。

    (9)琥珀の薬効についてはいろいろ面白い話がある。ドイツ騎士団の人たちは、琥珀の中でも「白い琥珀」に特別な薬効があると信じていた。また、「白い琥珀」は邪悪なものを追い出してくれるともいわれ、ドイツ騎士団最後の総長アルブレヒト(在位1511年~1525年)は、胆石に効くといって、宗教改革の旗手マルティン・ルターに「白い琥珀」を贈っている。また、地動説を唱えたポーランド人、コペルニクスは、心臓病に効くといって、琥珀の粉末を処方していた。

    (10)「余談:バルト海の琥珀と琥珀の道」参照。

    $00A0(11) 取締りのための琥珀専門官はベルンシュタインマイスター(Bernsteinmeister)と呼ばれ、ケーニヒスベルク(K$00F6nigsberg:現在のカリーニングラード)の面する海岸湖(潟)とバルト海をつなぐ狭い水路に築かれたロッハシュテート城に駐在していた。そのため、この城はついに「ベルンシュタインマイスター城」と呼ばれるようになった。

    $00A0(12)こうした琥珀加工業者のギルドは、1302年にベルギーのブルージュに、1310年に北ドイツのハンザ同盟の盟主都市リューベックに出現している。

    $00A0(13)こういう歴史を振り返ると、琥珀のアクセサリーは、ブローチやペンダントもよいが、何といってもネックレスが本命であろう。また、日本人は飴色の透明な琥珀を好むようだが、白い琥珀、あるいは、乳白色の部分が流れるように入っている半透明の琥珀の美しさはまた格別であり、高価でもある。リトアニアは昔から「琥珀の国」といわれているが、琥珀の加工技術はともかく、ネックレスの紐や金具類が昔はよくなかった。今はそんなこともないだろうが、あれは多分、ソ連体制下でアクセサリー産業などが発展できなかった結果ではなかったか。

    $00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0 (2013年10月記)

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