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  • リトアニア史余談21:ゲディミナス大公像の除幕式/武田充司@クラス1955

     1996年9月22日の日曜、幸いにも不機嫌な秋の天候はまだヴィルニュスに近づいていなかった。

    この日は夏の最後を飾るヴィルニュス祭り(1)の最終日であった。大聖堂脇の広場を埋め尽くした大群衆が、爽やかに晴れ上がった秋空の下で静かに開会を待っていた。ソ連の崩壊によってこの国が独立を回復して以来、これほど多くの市民が集まったのは初めてのことだった。しかし、それは、あの激しい独立闘争の怒れる群集ではなく、独立後の自由と平和を噛みしめている寡黙な人たちであった。

     ブラザウスカス大統領(2)のスピーチにはじまったゲディミナス大公像の除幕式は、和やかな静寂さの中で淡々と進み(3)、やがて大公像が群集の前に姿を現した。花崗岩でつくられた高さ7mの台座(4)の上に、馬を従えて大地を踏みしめて立つゲディミナスの像は、我々を静かに見下ろしている。左手に持った剣は、切っ先を前に向けることなく、低く水平に保持され、手のひらを下に向けた右手とともに穏やかに前方に差し出されている。

     武者震いする愛馬に打ち跨り、右手で剣を振りかざす大公の勇姿を期待していた人々には戸惑いを与えるこの像は、平和と友好を誓う新生リトアニアを象徴するものであった。そして、こぶしを突き上げて雄叫びをあげる旧体制の文化に対するアンチ・テーゼともなっていた。

     この像を刻んだのは米国在住のリトアニア人彫刻家ヴィタウタス・カシュバ(5)であるが、その原像をもとに銅像の製作をしたのはエストニアの首都タリンの工場であり(6)、台座に使われた花崗岩はウクライナ政府の寄贈であった。そして、この像の建設費は一般からの募金で賄われた。そこには、ソ連時代に苦しみを共有した近隣諸国の友好の絆があった。

     独立回復以前から既に経済的に困窮していたリトアニアは、独立回復後、激しいインフレーションに見舞われた(7)。1992年には1000%を超える猛烈な物価上昇を記録した(8)。しかし、1995年を境に物価は急速に安定し、下がり続けていたGDPも1995年から上昇に転じた(9)。ゲディミナス大公像の除幕式は、独立回復の代償としてリトアニア人が味わった塗炭の苦しみから脱して、ようやく前途に光明を見出したときに行われたのだった。
     ギリシャ神殿を想わせる大聖堂やその前にある鐘楼を訪れた人たちは、黄緑赤のリトアニアの国旗が翻る丘の上のゲディミナスの塔を目指して登ってゆく。今では、大聖堂のうしろに再建された美しい中世の宮殿も新たな観光の目玉となったが、しかし、大聖堂の東側の広場に立つゲディミナス大公像にも足を止め、この像が放つ独特のオーラにも触れてもらいたいと思う。

    〔蛇足〕

    (1)このお祭り(フェスティヴァル)の日程は、その後、前倒しされ、8月に催されるようになった。

    (2)アルギルダス・ブラザウスカス(Algirdas Brazauskas)は独立回復後の初代大統領で、1993年に選出された。それまでは、リトアニア最高会議議長のランズベルギス(Vytautas Landsbergis)が国家元首となっていた。第2代大統領は1998年選出のヴァルダス・アダムクス(Valdas Adamkus)で、大統領の任期は5年、3選は禁止されている。なお、大統領選挙に立候補できるのは満40歳以上とされている。

    (3)このとき、大統領に続いて演壇に立ったのはヴィルニュス市長ヴィドゥナス(Alis Vidunas)であったと思うが、3番目に登壇した人が誰だったか思い出せない。

    (4)この台座の正面左(像の左手側)には、伝説の「鉄の鎧を着た吠える狼」(余談:「ヴィルニュス遷都伝説と神官」参照)が刻まれている。また、台座の両側面には、それぞれ、アルギルダスとヨガイラ父子、および、ケストゥティスとヴィタウタス父子の肖像と名が刻まれている。アルギルダス(Algirdas:大公在位1345年~1377年)とケストゥティス(Kestutis)は、ゲディミナス(余談:「ヴィルニュス遷都伝説と神官」の蛇足(1)参照)の息子たちであり、父の遺志を継いでリトアニアを発展させた兄弟である。

    (5)ヴィタウタス・カシュバ(Vytautas Kasuba:1915年8月15日生~1997年4月14日没)はベラルーシのミンスク(Minsk)で生れ、リトアニアのマリアンポレ(Marijampole)で育ったリトアニア人の彫刻家で、1947年以後米国に在住し、ニューヨークで亡くなった。生前、彼は自分の作品の一部をリトアニアに寄贈したため、現在、それらの作品はヴィルニュスで見ることができる。

    (6)鋳造に必要な材料(青銅)はリトアニアの国境警備隊が調達して提供したという。その材料を使って、エストニアの工場は無料で鋳造してくれたとか、非常に安く鋳造してくれたとか言われている。

    (7)ゴルバチョフの説得にも応ぜず、ソ連邦からの離脱と独立を宣言したリトアニアは、その頃からソ連の経済制裁をうけて困窮していた。独立後は、国家による計画経済から自由主義経済への急激な移行によって、社会的経済的混乱が起ったが、それより重要なことは、ソ連圏の産業経済システムから切り離されたことによる、経済的孤立化であった。ソ連体制下では徹底した分業システムが確立していたから、リトアニアでは多くの優れた部品を生産することはできても、何ひとつ有用な完成品を製造することはできない。そのため、ソ連圏の経済システムから切り離されたリトアニアの産業は、呼吸困難となって窒息死する運命にあった。唯一の生き残る道は一刻も早く西側経済圏の一員になることだったが、それは簡単なことではなかった。その結果、独立後のリトアニア経済は一貫して悪化したが、1995年頃に漸く底を打った。

    (8)リトアニアでは、独立を回復した1990年から統計のとり方が変わったため、それ以前の数字と比較するのは難しい。また、殆どの統計が1993年から始まっているため、それ以前の数字の信頼性には多少疑問もあるようだ。しかし、以下に独立回復後の「前年比物価上昇率」を示すと、1991年=350%、1992年=1163%、1993年=183%、1994年=45%、1995年=35.7%、1996年=13.1%、1997年=8.4% となっている。

    (9)1990年のGDPを100とすると、1991年=94.3、1992年=74.2、1993年=62.2、1994年=56.1、1995年=57.9、1996年=60.6、1997年=64.0 となり、1995年から回復基調となってはいるが、90年代末になっても、依然として、独立回復直前の状態に戻っていない。

    (2013年9月記)

    1件のコメント »
    1. 武田兄は1996年にゲディミナス大公像の除幕式に参列されたという大変貴重な経験をされたのですね。ヴィリニュスの大聖堂の写真だけブログに掲載しましたが、改めて旅行中の写真を調べてみました。馬を従え、水平に保持された剣を持つゲディミナス大公像を一枚撮影していました。また鐘楼の写真もありました。武田兄と会える機会に、プリントを持参しましょう。
      リトアニアは凄いインフレに苦労したようですが、日本も戦後、インフレに苦しみ、旧円が凍結されデノミが行われました。また、NECに勤務中、出張中の南米では、インフレが凄まじく、毎日ドルを闇屋で現地通貨に換えていました。会社からは、片道の航空券しか支給されず、帰路の航空券は現地購入でした。帰国日の決定は、顧客との交渉経過次第で流動的であり、大変な時期がありました。

      コメント by 大橋康隆 — 2013年9月18日 @ 13:18

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