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  • リトアニア史余談20:ビルーテの生涯と伝説/武田充司@クラス1955

     陰鬱な寒い冬が長い北の国リトアニアでは、短い夏のシーズンになると、人々は仕事を放り出して夏の保養地に出かける。

    リトアニア北西部のバルト海に面した保養地パランガ(*1)の夏は、そうした人々で溢れ、遅い日没を目一杯楽しもうとする若者の熱気でむせ返っている。そのパランガの街の南外れに大きな公園(*2)がある。その公園の中央にある琥珀博物館(*3)の近くに「ビルーテの丘」と呼ばれる小高い丘(*4)がある。
     ビルーテはバルト族の一派であるジェマイチア人(*5)の豪族の娘としてパランガの近くで生まれたと言われている。当時、この地方では昔からの自然崇拝の信仰が守られていたので、美しく聡明なビルーテはパランガの祭壇に燃える「聖なる火」を守る巫女となった。
     あるとき、この美しい巫女の噂を聞きつけたトラカイ公ケストゥティス(*6)は、彼女に求婚した。しかし、ビルーテは、自分の体は神に捧げたものであると言ってケストゥティスの申し入れを頑なに断った。それでも諦めきれないケストゥティスは、ビルーテを略奪してトラカイの館に連れて来た。そして、彼女を丁重にもてなし、親族や家臣を招いて盛大な結婚式を挙げた(*7)。
     ビルーテは長男ヴィタウタスを頭に三男、三女に恵まれたが、1382年夏、夫君ケストゥティスが甥のリトアニア大公ヨガイラとの政争に敗れ、捕らえられた(*8)。そのとき、彼女は危うく難を逃れ、ブーク川のほとりの町ブラスタス(*9)に身を隠した。しかし、その年の秋、彼女はブーク川で溺死体となって発見された。その後、彼女はヨガイラの手の者に殺害され、溺死を装ってブーク川に投げ込まれたのだという噂が広まった。
     しかし、それから30年以上も経った1414年に開かれたコンスタンツの公会議(*10)で、ジェマイチアの代表が語った話では、ビルーテは生き延びて故郷のパランガに帰り、再び「聖なる火」を守って1389年に亡くなり、遺体はパランガの丘に埋葬されたという。やがて、ビルーテは、英雄ヴィタウタス(*11)の母として人々に親しまれ、聖女として崇められるようになった(*12)。現在でも、ビルーテという名は人気がある。実際、リトアニアに行けば幾人かの美しいビルーテさんに出会うことができる。

    〔蛇足〕

    (1)パランガ(Palanga)を含むこのあたり海岸線沿いの地域だけは、一度もドイツ騎士団の支配をうけていないバルト族の土地である。パランガの少し南に位置するリトアニアの港湾都市クライペダとそれ以南のバルト海沿いの地域は早くからドイツ騎士団の手に落ち、東プロイセン領となった。

    (2)この公園は大きな植物園である。

    (3)この琥泊博物館については「余談:バルト海の琥珀と琥珀の道」の蛇足(1)参照。

    (4)13世紀になって、帯剣騎士団(のちに、リヴォニア騎士団)やドイツ騎士団がこの辺りに姿を見せるようになったとき、人々はこの丘の上に丘砦(「余談:丘の上の砦」参照)を造って防禦を固めた。しかし、14世紀後半のケストゥティス時代になって、この丘砦はなくなり、その跡に神殿と天文台が築かれ、神殿には「聖なる火」が燃えていたという。これらのことは、1989年の発掘調査で確認された。この丘の上からはバルト海が一望できる。

    (5)ジェマイチア(Zemaitija)はリトアニアの西部地域で、ここに住んでいたバルト族の一派をジェマイチア人と呼んでいる。ドイツ騎士団は戦略的に重要なこの地域を支配しようとして度々リトアニアと争った。

    (6)ケストゥティス(Kestutis)は、リトアニアがこの地域の大国となる基礎を築いたゲディミナス大公(在位1316年~1341年)の息子のひとりで、兄アルギルダス大公(Algirdas:在位1345年~1377年)と協力して両頭政治の時代を築き、リトアニアを発展させた功労者である。

    (7)この略奪結婚の話は伝説で、恐らく、トラカイ公としてジェマイチア地方も支配していたケストゥティスが、統治の目的から、地元の有力豪族との血縁関係を求めて政略結婚を画策したというのが真実に近いと思われる。実際、ケストゥティスはこのとき既に正妻がいたが、1351年頃に彼女は亡くなったと推定され、ケストゥティスがビルーテ(Birute)を娶ったのは1349年か1350年であるから、ビルーテは後妻としてではなく側室としてトラカイの館に迎えられたのではなかろうか。なお、このときのトラカイ(Trakai)は現在のトラカイ城のある場所ではなく、今では、旧トラカイ(Senieji Trakai)と呼ばれている場所で、現在のトラカイの東方約3kmにある。

    (8)1377年、リトアニア大公アルギルダスが亡くなったが、彼は生前から、その才能を認めて可愛がっていた息子ヨガイラに大公位を継がせることにしていたので、若いヨガイラがリトアニア大公となった。ケストゥティスは兄アルギルダスの遺志を尊重して若輩の甥ヨガイラを立てていたが、やがて両人の間で対外政策の違いが表面化し、争いがくり返された。そして、最後にケストゥティスが騙し討ちにあって捉えられ、息子のヴィタスタスとともにクレヴァ(Kreva:ヴィルニュスの南東約80kmにある古くからのリトアニアの重要拠点で、現在はベラルーシ領)の城に幽閉されたが、ケストゥティスは数日後に獄中で不審な死をとげた。息子のヴィタウタスはその年の秋に城を抜け出して再起した。

    (9)ブラスタス(Brastas)は、リトアニアの首都ヴィルニュスから南々西に300km余り離れた位置にあり、現在はポーランドとの国境にあるベラルーシの都市で、ブレスト(Brest)あるいは、ブレスト・リトフスク(Brest Litovsk)と呼ばれているが、当時は、リトアニア領内の都市であった。

    (10)コンスタンツの公会議は、ローマ教会大分裂(Great Schism)の時代を終らせたいと願う神聖ローマ皇帝ジギスムントの働きかけで始まったが、ヤン・フスの異端問題の処理や、1410年の「ジャルギリスの戦い」(西欧では、「タンネンベルクの戦い」あるいは「グリュンヴァルトの戦い」と呼ばれる)の結果、敗者ドイツ騎士団と勝者リトアニア・ポーランド連合国の間で締結された

    「トルンの平和条約」の著しい不平等性が取り上げられた。このとき、ジェマイチアの代表団も出席し、ドイツ騎士団の非人道的で不当な振る舞いの数々を論難し、西欧世界に大きな衝撃を与えた。

    (11)特に「ジャルギリスの戦い」でドイツ騎士団を敗った立役者としてリトアニア人の間で人気がある。

    (12)ビルーテの死後間もなくリトアニアはキリスト教(カトリック)の国となったが、地元民のあまりに強いビルーテ信仰が地域のキリスト教化の妨げになった。そこで、1506年、この「ビルーテの丘」の上にチャペルが建てられたという。しかし、その後、このチャペルは失われ1869年に再建されて現在に至っている。また、ビルーテが葬られたとされる場所近くには、現在、ティウリェネ(K. Tiuliene)によって刻まれたビルーテの像が立っている。

    (2013年8月 記)

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