• 最近の記事

  • Multi-Language

  • リトアニアの旅(その2)/大橋康隆@クラス1955

    6月28日、朝食後ヴィリニュスを出発してバスで北西に約100km、1時間半でカウナスに到着した。


    小雨が降っていたが、先ずは杉原記念館を訪れた。(写真1)最初に2本のビデオにより、「六千人の命のビザ」を発行してナチスに追われるユダヤ人を救った杉原千畝領事代理(1900-1986)(写真2)の足跡を紹介された。次いで館内の資料を見学した。(写真3)最近は、日本でも著書や映画、演劇、テレビで紹介されており、杉原外交官の業績を知る人は多いが、日本政府が公式に名誉を回復したのは2000年。河野洋平外務大臣の時で本人没後14年、あまりにも遅い。杉原記念館は、1999年に旧日本領事館跡に設立された。2001年に幸子夫人が旧日本領事館前に桜の植樹をされたが、翌年逝去された。2001年には、リトアニアの首都ヴィリニュスにも杉原千畝氏記念碑が建立され、2007年5月26日には、天皇・皇后 両陛下が記念碑を訪れておられる。

    写真1 杉原記念館.jpg$00A0 $00A0写真2 杉原千畝領事代理.jpg $00A0写真3 命のビザ.jpg
     $00A0写真1:杉原記念館 $00A0 写真2:杉原千畝
          領事代理
    $00A0 写真3:命のビザ

    1939年に当時リトアニアの首都であったカウナスに日本領事館が開設された。1940年7月18日、突然カウナス日本領事館前に、欧州各地からナチスに追われ、リトアニアに逃れてきたユダヤ人の人垣が出来た。シベリア、日本を経由してカリブ海のオランダ領キュラソー島に逃れるため、日本の通過ビザを求めていた。杉原領事代理はビザ発給の許可を求めて、電報を幾度か日本に打電したが、答えは否であった。当時の日本政府はドイツとの同盟に配慮したのである。悩んだ末に彼は本国指示に背いて、独断でビザを発行した。8月末に日本領事館を閉鎖するまで、彼は昼夜にわたり、ペンが折れ、腕が動かなくなるまでビザを書き続けた。1940年9月5日、カウナスを後にして欧州各地を転々としたが、1945年にルーマニアのブカレスト郊外の捕虜収容所に収監され、1947年4月に家族と共に博多に帰国した。外務省は、外務省訓令に反したとして解職処分にした。以後不遇なまま商社のモスクワ事務所長などをして1975年に退職。1985年「諸国民の中の正義の人」としてイスラエル政府表彰を受けたが、翌年に逝去。世界中のユダヤ人からの問い合わせに対し、外務省は「Sempo$00A0 Sugihara 外交官は、過去・現在、存在せず。」と回答していた。「千畝(ちうね)」という日本読みは発音が難しく、外国人は音読みで「Sempo」と呼んでいた。
    「日本のシンドラー」とよく言われるが、日本政府が名誉回復するのが遅かったためで全く残念である。1982年にトーマス・キンーリがノン・フィクション小説「シンドラーの箱舟」を出版して一躍世界に知れ渡った。この小説を基に、1993年、スピルバーグ監督による米国映画「シンドラーのリスト」が余りにも有名になり、杉原千畝領事代理の「六千人の命のビザ」の正当な評価が後追いになってしまった。本国の命令に従っておれば、輝かしい未来が待ち受けていた筈の杉原千畝外交官が、身の危険を顧みず人間としての信念に基づいて決断した行為は、世界中の人々から、深く尊敬されている。多くのユダヤ人を救った行為は同じであるが、ドイツの実業家であったシンドラーとは救出の経緯が著しく異なり、併記して宣伝する風潮には、違和感を覚える。情報が正しく伝えられ、真実が認識されるべきであろう。杉原領事代理がビザを書き続けた机で記念写真を撮影したが、身の引き締まる思いであった。(写真4)杉原記念館を見学後、カウナス市内観光をした。先ず、聖ペトロ&パウロ大聖堂を見学したが、内部正面の祭壇(写真5)は圧巻である。次にイエズス教会(写真6)と旧市庁舎(写真7)を訪れ、最後にカウナス城(写真8)を見学した。

    $00A0写真4 記念写真.jpg $00A0写真5 大聖堂内部.jpg 写真6 イエズス教会.jpg$00A0
    $00A0 写真4:記念写真 $00A0 写真5:大聖堂内部 $00A0 写真6:イエズス教会
    $00A0写真7 旧市庁舎.jpg $00A0写真8 カウナス城.jpg $00A0写真9 十字架の丘.jpg
     $00A0写真7:旧市庁舎 $00A0 写真8:カウナス城 $00A0 写真9:十字架の丘

    6月29日、朝食後カウナスを出発してバスで約140km 北上し、2時間で十字架の丘に到着した。無数の十字架の林立に圧倒された。(写真9) 十字架の丘は、抑圧された民族、宗教の象徴である。ソ連時代は当局がブルドーザーで何度も十字架をなぎ倒したが、夜の間に新しい十字架が立てられ 、手の施しようもなかったそうだ。日本語や韓国語の十字架も見かけたが、十字架の丘は膨張を続けている。十字架の丘から暫くバスで北上すると、ラトヴィアとの国境に到着した。バスを降りて、小さな小屋のような換金所でリタスをラッツに換金すると、何も手続きしないで国境を越えられた。

    2 Comments »
    1. バルト3国の旅も、いよいよ佳境に入ったようで、第2報を楽しく読ませて頂きました。カウナスの懐かしい写真の数々を眺めながら、杉原記念館を最初に訪れた当時のことを思い出しました。当時は、あの建物は個人の所有で、住んでいる人に鍵を開けてもらって、あの部屋だけを見学させてもらったものです。たまに、運悪く、家主が留守だと、入れないので、そのまま引き返したこともありました。住宅全部を買い取って、あのように整備されてからは、訪れる観光客(それは殆ど日本人ですが)も増加しました。以前は、あの家の部屋で、日本語の教室が開かれていました。たまたま、その時に訪問して、日本に興味を持っているリトアニア人の学生たちに会ったこともありました。教えている先生もリトアニア人で(たしか、カウナスのヴィタウタス・マグナス大学の先生?)、とても熱心な日本通の人でした。
      カウナスのライスヴェス大通りに、メトロポリス(Metropolis)という古いレストランがあったのですが、そこに杉原千畝がよく行ったそうです。このレストランの内部は、戦前の古き良き時代のしっとりとした静かな雰囲気が漂っていて、僕も幾度か食事をしたことがありましたが、あのレストランのレッド・カーペットを懐かしむリトアニア人ダイアスポラ(海外へ移住を余儀なくされた人たち)も多かったと聞いています。しかし、残念ながら、僕が行き始めてから数年後に大改装されて、騒々しいアメリカ式(?)のカフェ・バーみたいなものになってしまいました。杉原千畝が生きていたら、さぞかし嘆くことでしょう。

      コメント by 武田充司 — 2013年8月16日 @ 13:10

    2. 当日は小雨が降っていたので、肝心の杉原記念館の全景は撮影できず、入手した絵葉書を掲載、大聖堂の全景も撮影できず内部写真になりました。杉原記念館は当初個人の所有であったことは、当日の説明で知りました。昔訪れた方々は苦労されたのですね。最近は、年間7,000人の訪問者があり、そのうち5,000人が日本人で、残りの大半はリトアニアの方々だそうで、現地における杉原外交官の高い評価が伺えます。
      武田兄から旅行記も佳境に入ったとお褒めの言葉を頂きましたが、改めて読み返したら推敲不足の所を発見しました。1940年7月18日の記述で、「オランダ領キュラソール島」と書きましたが、「第三国」に訂正します。ビザを発行するには目的地を記入する必要があり、杉原領事代理が、当時ユダヤ人に対し寛大であったオランダのキュラソール島を選んで記入したそうです。
      メトロポリス・レストランで昼食をすることは出来ませんでした。地図を見るとライスヴェス通りにメトロポリスというホテルがあります。杉原千畝さんも、徒然草にある世の移ろいを感じておられるでしょう。
      最近の新聞にミュージカル「Sempo」が9月に再演されると大きな広告が出ていました。多くの日本人が杉原外交官の業績を知ることは結構なことです。私にとっては、テレビで放映された加藤剛、秋吉久美子、主演の「命のビザ」が、強く印象に残っています。

      コメント by 大橋康隆 — 2013年8月19日 @ 11:36

    Leave a comment

    コメント投稿後は、管理者の承認まで少しお待ち下さい。また、コメント内容によっては掲載を行わない場合もあります。