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  • マクベス/斎藤嘉博@クラス1955

     6月2日深夜に放送された野村萬斎構成、演出、主演のマクベスを大変面白く見ました。ご覧になったかたも多いでしょう。


    多数の人物が並んでいる原作を、マクベスとその夫人、それにバンクオーやダンカンを兼ねる三人の魔女を加えた五人だけで演じる舞台は気持ちよく焦点が絞られ、見ていてなるほどこの世は業を背負った人々が魔女に操られている世界なのだという感を深くしました。舞台も能の舞台を意識したと話されている大変シンプルな構成。回転することが可能な四角い枠が宮殿になり動く森にもなる。そして風をはらんで帆のように動く幕。複雑な照明表現とあいまって舞台に、いや画面に引き込まれる1時間半でした。マクベスはシェクスピアの四大悲劇のなかでも一番最後に書かれたと言われ私の好きな脚本。この舞台は米国と韓国での上演を予定されているそうです。テンポを大切にしたためと思いますが、翻訳される字幕のことを考えると、また土台となっている能の舞台のイメージを濃くするためにも、セリフをもう少しゆっくりと喋ったらよかったのかなと思いました。
     大分古いものですが1997年にスカラ座で上演されたヴェルディの同名のオペラでマリア・グレギーナがマクベス夫人を歌った舞台では、全四幕を通して一辺6mほどの大きな立方体が舞台の中央にしつらえられていて、これが宮殿にも森にもなるというヴィックの演出でしたが、それと一脈通じるものがありました。演出の意図がうかがわれます。オペラでは魔女が合唱団で演じられていますので、5人の舞台とは全く違った感じになり、それなりに大きな魅力を感じます。音楽と身体全体で表現する歌唱の力でしょうか。この二つの舞台ではオペラの欧米流の伝統と日本流の能の世界の対比が浮き彫りになっているような気がしました。
     先月、新国立劇場でこれもヴェルディ―のナブッコを見ました。物語はイスラエルに侵攻して神殿を破壊したバビロニア王ナブッコが、最後には娘の言にしたがってイスラエルの人々を解放するというもの。舞台は右手に二台のエスカレータがあるショッピングセンター!そこにアルカイダまがいの暴徒が侵入して!演出のヴィックは「原作にある唯一神の思想を東京でどう表現するか」に意を用いて「それを自然の力で表現しようとした」とプログラムに書いています。その意図は好感ですが、これが東京あるいは日本の自然神?
     ほぼ10年前にこの劇場でキース・ウォーナー演出のワーグナー作曲ジークフリートを見ました。その舞台の第二幕はアメリカのモーテル。これには怒り心頭に発して、しばらくこの劇場に足を運びませんでした。今回もジークフリートの時ほどではありませんが後味の悪い思いで劇場を後にしたものです。
     最近は、原作者、作曲者のイメージから離れて(いや演出家は尊重しての結果でしょう)現代化した演出が多いようです。若い方たちにはテレビの影響や読書離れなどでやはりこのほうがわかりやすいのでしょうか。あるいは私が遅れているのか。
     瀬戸内寂聴さんは「寂聴と読む源氏物語」の中で、“よい小説は読者のイメージの世界を膨らませる”と書いていましたが、舞台も同じ。萬斎のマクベスを見ながら魔女の世界へのイメージを膨らませ、また10年ほど前に訪れたシェクスピアの生地、ストラトフォード・アポン・エイヴォンの鄙びた街を想い出しながら、よい時間を過ごすことができました。

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