リトアニア史余談18:王殺しと聖人/武田充司@クラス1955
記>級会消息 (2013年度, class1955, 消息)
〔蛇足〕
(※1)ダウマンタス(Daumantas)の王殺しについては「余談:ミンダウガスの戴冠」を参照されたい。
(※2)ナルシャ(Nalsia)は現在のリトアニアの北東部の地域。
(※3)トレニオタ(Treniota)自身がミンダウガスを殺したという説もあり、トレニオタとダウマンタスが共謀したことは確からしい。トレニオタは、ジェマイチア公ヴィキンタス(Vykintas)とミンダウガスの姉妹のひとりとの間に生まれた嫡男、したがって、ミンダウガスの甥である。
(※4)ヴァイシェルガ(Vaiselga)はミンダウガスの最初の妻の子で、本来ならば王位継承者であるが、早くから正教に帰依して政治から身を引き、ガリチアで修行した。事件当時は、リトアニアにもどっていて、国内のノヴォグルドク(Novogrudok:現在はベラルーシ領内の町)近くの修道院にいた。
(※5)プスコフ(Pskov)は、サンクト・ペテルブルグの南々西約260kmリトアニアの首都ヴィルニュスからは北々東約390kmに位置するロシア最西端の中世都市である。プスコフの直ぐ西は現在のエストニア南部との国境である。プスコフは、キエフ・ルーシの源流であり交易で栄えたユニークな都市国家ノヴゴロドの弟といわれ、ノヴゴロドとともに、華麗な中世ロシア文化の華を咲かせた小都市である。また、当時のプスコフは正教文化が北方でカトリック文化と接触する最西端に位置していた。
(※6)リヴォニア騎士団については「余談:ミンダウガスの戴冠」の蛇足(※3)参照。
(※7)ラクヴェレ(Rakvere)は、エストニアの首都タリンの東方約100kmにある。したがって、ダウマンタス軍はエストニアの奥深くまで侵攻してリヴォニア騎士団と戦ったことが分かる。
(※8)聖ドヴモント(St. Dovmont)という呼び方は、聖ダウマンタス(St.Daumantas)のロシア語的な訛りであろう。リトアニア語特有の語尾“-as”は省かれるから“Daumant”となるので、これが“Dovmont”となったのであろう。
(※9)ここで注目されるのは、この聖者物語の中で、ミンダウガス王の暗殺者であるダウマンタス(聖ドヴモント)が、異教徒の国リトアニアの永遠の敵として描かれてはいない点である。聖ドヴモントは、リトアニア人にとっても英雄であり、聖人として描かれているという。これは、おそらく、ゲディミナスが聖ドヴモント崇拝をプスコフ支配に利用した当時に粉飾されたものであろう。
(2013年6月記)
2013年6月21日 記>級会消息