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  • リトアニア史余談18:王殺しと聖人/武田充司@クラス1955

     リトアニア建国の祖ミンダウガス王を暗殺したダウマンタス(※1)は、王殺しの罪を問われることもなくナルシャ(※2)の城にとどまっていた。

    それというのも、ミンダウガス亡きあと権力の座に就いたのは、ダウマンタスの共謀者トレニオタ(※3)であったからだ。しかし、ミンダウガスに忠誠を誓っていた廷臣たちはこれを黙って見てはいなかった。
     1263年秋リトアニア大公となったトレニオタは、それから僅か半年後の1264年春、ミンダウガス時代の廷臣たちによって殺害された。そして、廷臣たちは、生き残っていたミンダウガスの息子ヴァイシェルガ(※4)を迎え入れ、リトアニア大公とした。ヴァイシェルガは、混乱したリトアニアを立て直すべく、トレニオタの支持者たちを一掃し、1265年、ナルシャ公ダウマンタスの城を落とした。敗れたダウマンタスはロシアのプスコフ(※5)に逃れ、翌年、正教に帰依して洗礼名ティモフェイを名乗り、1299年に没するまでプスコフにとどまった。
     ダウマンタスがプスコフに亡命した当時、リヴォニア騎士団(※6)はリヴォニア(現在のラトヴィア)からエストニアに至る広大な地域に進出し、東方の正教徒の町プスコフに対しても度々攻撃を加えていた。プスコフの窮状を知ったダウマンタスは、市民を鼓舞し、陣頭に立ってプスコフ防衛に立ち上がった。市民の支持をえたダウマンタスはプスコフ公に選出され、プスコフ市街の要塞化を進めた。こうして、リヴォニア騎士団の攻撃からプスコフを守っただけでなく、ダウマンタスはリヴォニア騎士団に戦いを挑み、エストニアのラクヴェレの戦い(※7)で騎士団軍を撃破し、一時はエストニアから騎士団勢力を駆逐した。こうした働きによってダウマンタスは、死後、プスコフ市民から聖人として崇められ、聖ドヴモント(※8)と呼ばれるようになった。ダウマンタスが築いたプスコフの要塞都市は現在のプスコフ旧市街で、人々から「ドヴモント街」と呼ばれている。そして、ダウマンタスの遺体と剣はプスコフのクレムリンに保存されている。
     ダウマンタスがプスコフで永眠して暫くすると、リトアニアはゲディミナス大公(在位1316年~1341年)の時代になるが、リトアニアをこの地域の大国にしたゲディミナスは、プスコフ支配のために、この聖ドヴモント崇拝を大いに奨励し利用したと言われている。最近の研究によると、プスコフにおける聖人伝説「聖ドヴモント物語」が確立したのは14世紀の第2四半期であろうと推定されているが、これはまさしく、ゲディミナスが聖ドヴモント崇拝を奨励した時期に一致している(※9)。

    〔蛇足〕

    (※1)ダウマンタス(Daumantas)の王殺しについては「余談:ミンダウガスの戴冠」を参照されたい。

    (※2)ナルシャ(Nalsia)は現在のリトアニアの北東部の地域。

    (※3)トレニオタ(Treniota)自身がミンダウガスを殺したという説もあり、トレニオタとダウマンタスが共謀したことは確からしい。トレニオタは、ジェマイチア公ヴィキンタス(Vykintas)とミンダウガスの姉妹のひとりとの間に生まれた嫡男、したがって、ミンダウガスの甥である。

    (※4)ヴァイシェルガ(Vaiselga)はミンダウガスの最初の妻の子で、本来ならば王位継承者であるが、早くから正教に帰依して政治から身を引き、ガリチアで修行した。事件当時は、リトアニアにもどっていて、国内のノヴォグルドク(Novogrudok:現在はベラルーシ領内の町)近くの修道院にいた。

    (※5)プスコフ(Pskov)は、サンクト・ペテルブルグの南々西約260kmリトアニアの首都ヴィルニュスからは北々東約390kmに位置するロシア最西端の中世都市である。プスコフの直ぐ西は現在のエストニア南部との国境である。プスコフは、キエフ・ルーシの源流であり交易で栄えたユニークな都市国家ノヴゴロドの弟といわれ、ノヴゴロドとともに、華麗な中世ロシア文化の華を咲かせた小都市である。また、当時のプスコフは正教文化が北方でカトリック文化と接触する最西端に位置していた。

    (※6)リヴォニア騎士団については「余談:ミンダウガスの戴冠」の蛇足(※3)参照。

    (※7)ラクヴェレ(Rakvere)は、エストニアの首都タリンの東方約100kmにある。したがって、ダウマンタス軍はエストニアの奥深くまで侵攻してリヴォニア騎士団と戦ったことが分かる。

    (※8)聖ドヴモント(St. Dovmont)という呼び方は、聖ダウマンタス(St.Daumantas)のロシア語的な訛りであろう。リトアニア語特有の語尾“-as”は省かれるから“Daumant”となるので、これが“Dovmont”となったのであろう。

    (※9)ここで注目されるのは、この聖者物語の中で、ミンダウガス王の暗殺者であるダウマンタス(聖ドヴモント)が、異教徒の国リトアニアの永遠の敵として描かれてはいない点である。聖ドヴモントは、リトアニア人にとっても英雄であり、聖人として描かれているという。これは、おそらく、ゲディミナスが聖ドヴモント崇拝をプスコフ支配に利用した当時に粉飾されたものであろう。

    (2013年6月記)

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