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  • リトアニア史余談17:ミンダウガスの戴冠/武田充司@クラス1955

     リトアニア建国の祖といわれるミンダウガスが初めてバルト族の統一国家を打ち立てたのは13世紀中葉のことである。

    リトアニア統一を目前にして、ジェマイチア地方のバルト族(※1)の首領ヴィキンタスと熾烈な戦いを余儀なくされていたミンダウガスは(※2)、北のリヴォニア騎士団の脅威を取り除くために、彼らが今後決してリトアニアを攻撃しないことを条件に、キリスト教徒となることを約束した(※3)。そして、1251年初め、ミンダウガスは妻マルタと2人の息子、および彼に従う多くの家臣らともに、リヴォニア騎士団の司教クリスチャンから洗礼をうけた。ローマ教皇インノケンティウス4世は、同年7月17日、彼らに洗礼証明書を発行し、リトアニアが「聖ペテロのものであること」を宣言した。

     教皇インノケンティウス4世によって戴冠を許されたミンダウガスは、1253年7月6日、戴冠式を挙げてリトアニア王となった(※4)。こうして西欧キリスト教世界の仲間入りを果たしたリトアニア王国は、新しい司教区として認められ、リヴォニア騎士団の司教クリスチャンが初代リトアニア司教に選任された。ミンダウガス王はクリスチャン司教にジェマイチアの一部を司教領として寄贈した。

     ところが、キリスト教を頑なに拒否する頑固なジェマイチアの人々の激しい抵抗に遭って、司教の布教活動は足元から脅かされた。すべてが思うにまかせず失望したクリスチャン司教は、1259年ドイツに帰ってしまった。困惑したミンダウガス王は、主人を失った司教領をリヴォニア騎士団に譲渡したのだが、これが益々ジェマイチアの人々の感情を逆撫でした。断固としてドイツ人の支配を拒否して戦う姿勢を崩さないジェマイチアの人々は、くり返しリヴォニアに侵攻し、リヴォニア騎士団に甚大な被害を与えた。これに対して、リヴォニア騎士団も、本部のドイツ騎士団の支援を得て、本格的なジェマイチア討伐をはじめた。それでもジェマイチアの人々は屈せず、果敢に戦って騎士団連合軍を撃破した(※5)。しかし、こうした有利な状況がいつまで続くか将来に不安を抱いたジェマイチアの人々は、この機会を逸することなく一気にリヴォニア騎士団を殲滅してしまおうと考え、ミンダウガス王に支援を求めた。

     この支援要請に対して、リヴォニア騎士団と友好関係を維持してきたミンダウガス王は逡巡したが、熟慮の末、ジェマイチアの人々とともにリヴォニア騎士団と戦う決意をした(※6)。しかし、これはあまりにも重大な方向転換であった。昔から彼に従っている家臣たちは、これを機に、主君がキリスト教徒であることをやめ、自分たちの伝統的信仰に復帰してくれることを望んだ。キリスト教徒としてのミンダウガス王は窮地に立たされた。
     1263年秋、ミンダウガス王は2人の息子とともに暗殺された(※7)。そして、リトアニアは再びバルト族の伝統的信仰を守る国に立ち返った(※8)。リトアニアはその後幾度かキリスト教を受容しようとしたが果たさず、ミンダウガスの死後123年余を経た1387年2月、リトアニアはカトリック信仰を受け入れて今日に至っている。

    〔蛇足〕

    (※1)ジェマイチア(Zemaitija)はリトアニアの西部地域で、この地域のバルト族はリトアニア中心部のバルト族とは別の部族であった。

    (※2)ミンダウガス(Mindaugas)の兄ダウスプルンガス(Dausprungas)が亡くなったあと、兄の2人の息子タウトヴィラスとエイヴィタスが、ジェマイチアのヴィキンタスのもとに走って、叔父ミンダウガスに対抗していた。

    (※3)これより先に、亡兄の息子タウトヴィラスがリヴォニアに赴き、彼らから正統なリトアニアの君主として認められるよう、リガの司教から洗礼をうけていた。リヴォニアは現在のバルト3国のひとつラトヴィアとほぼ同じ地域と考えてよい。ラトヴィアの首都リガは、13世紀初頭からバルト地域のカトリック布教の拠点で、司教座があった。リガの初代司教アルバートは、布教活動を支障なく進めるために、司教の私兵組織として帯剣騎士団を設立したが、これが、1236年の「サウレの戦い」でリトアニア軍に大敗したことが契機となって、プロシャに進出していたドイツ騎士団の庇護下に入り、以後、リヴォニア騎士団と呼ばれるようになった。リガの司教と帯剣騎士団は、主人と飼い犬の関係だが、騎士団は強大化して司教と対立するようになり、その対立関係はリヴォニア騎士団となっても続いていた。ミンダウガスは、この不仲を利用して、リヴォニア騎士団に接近し、甥のタウトヴィラスに対抗したのだ。西欧キリスト教世界からリトアニアの支配者と認められることが、統一国家建設に重要な意味をもっていた。

    (※4)7月6日は「建国の日」あるいは「ミンダウガス戴冠の日」として、現在のリトアニア共和国の“National Holiday”となっている。この日は、国のあちこちで多くの楽しい行事が催される。爽やかなリトアニアの夏の季節と相俟って、この日の前後数週間がリトアニア観光には最適である。なお、ミンダウガス戴冠の地は長い間不明であったが、現在では、1997年に発見されたアニクシュチャイ(Anyksciai)市近郊の森の中の小さな丘(土塁)であろうといわれている。アニクシュチャイは首都ヴィルニュスの北方約100kmにある。

    (※5)たとえば、1259年の「スクオダス(Skuodas)の戦い」や1260年の「ドゥルベ(Durbe)湖畔の戦い」で、騎士団側は連敗し大打撃をうけた。

    (※6)リトアニアは伝統的にリガの司教や市民(ハンザ商人)の味方で、リヴォニア騎士団の横暴から彼らを守ってやっていた。したがって、ミンダウガスもリヴォニア騎士団との友好関係は一時的な偽装であって、やがて、騎士団と争うことになるのは必然と見ていたはずだから、この決断はリトアニアの君主としては当然と言える。

    (※7)刺客は、ミンダウガスと義兄弟のナルシャ公ダウマンタス(Daumantas)であった(ダウマンタスの最初の妻がミンダウガスの姉妹)。ミンダウガスの2番目の妻マルタ(またはモルタ)が1262年に亡くなったあと、ミンダウガスはダウマンタスの2番目の妻を略奪して3番目の妻とした。このダウマンタスの妻と亡くなったマルタは姉妹であった。これがミンダウガス暗殺の直接の原因であろうが、それまでのミンダウガスのやり方に不満が鬱積していたことが根本にあった。

    (※8)当時、ローマ教皇から戴冠を許された君主のみが「王」呼ばれたので、ミンダウガスはリトアニア史上唯一の「王」である。その他のリトアニアの君主はすべて「大公」と呼ぶ習わしである。

    (2013年5月 記)

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