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  • リトアニア史余談16:モスクワの城壁 /武田充司@クラス1955

     1368年、リトアニア大公アルギルダスは弟ケストゥティスとともにモスクワ遠征の途についた(1)。

    モスクワ公ドミートリイのウラジーミル大公位に異を唱えて立ち上がったトヴェーリ公ミハイル2世(2)を支援するためであった。途中、スモレンスクの軍団も合流して膨れ上がったリトアニアの大軍を前にして、劣勢に立たされたモスクワ勢は野戦で敗れ、ついに、石の城壁で囲まれたモスクワの城塞(クレムリン)に逃げ込んだ(3)。これを見たアルギリダス率いる連合軍はすかさず城塞を包囲した。

     ところが、このとき、アルギルダスのもとに嫌な報せがとどいた。ドイツ騎士団がこの機を捉えて南からリトアニアの背後を脅かす動きをはじめたというのだ(4)。アルギルダスはやむなく3日間の包囲ののち兵を引き、急ぎリトアニアにもどった。

     虎口を脱したモスクワ公ドミートリイは、自分に敵対したスモレンスクとトヴェーリを次々に攻撃した(5)。そこで、アルギルダスは再びトヴェーリ公ミハイル2世を支援してモスクワに迫った。1370年のことである。しかし、クレムリンの堅固な城壁に阻まれて戦いは膠着状態となった。その間にリトアニア国内の親モスクワ勢力が不穏な動きを見せはじめた(6)。アルギルダスはやむなくドミートリイと和睦し、包囲を解いて帰国した。

     和議なって撤退するアルギルダスは、「リトアニアの戦士ここにあり」との思いをこめて、城壁に槍の傷跡を残したと言われている。堅固なクレムリンの城壁に阻まれたことがよほど悔しかったのであろう。

     それから2年後の1372年、今度はトヴェーリ公ミハイル2世がモスクワ攻撃(7)を企てた。アルギルダスはこれに応えて三度目のモスクワ遠征の途についた。しかし、リトアニア軍はトヴェーリ軍と合流する前にモスクワ公ドミートリイ率いる軍勢に阻まれてしまった。形勢不利とみたアルギルダスは決戦を避け、7年間という期限付き講和条約(8)を結び、クレムリンの城壁を見ることなく撤退した。

     こうして、3度にわたるアルギルダスのモスクワ遠征はすべて失敗に終った。そして、名門トヴェーリの没落は決定的となり(9)、これを境に、この地域におけるモスクワの覇権が確立することになる(10)。これがその後のリトアニアとモスクワの力関係にも変化をもたらした(11)。

    〔蛇足〕

    (1)リトアニア大公アルギルダス(Algirdas:在位1345年~1377年)は東方拡大政策を推進し、1362年にはキエフを併合して南東ロシアの広大な地域を支配した。これを可能にしたのは弟ケストゥティス(Kestutis)がドイツ騎士団との戦いに注力し、兄と役割分担したことによる。したがって、この時代は彼ら兄弟の2頭政治の時代ともいえる。

    (2)アレクサンドル・ネフスキーの末子ダニールを始祖とするモスクワ公国は格の低い新興の家柄であったから、ウラジーミル大公位をめぐって名門トヴェーリ公国と長年敵対関係にあった。ウラジーミル大公位はロシア諸公を束ねる最高の権威であったが、この頃は「タタールのくびき」の時代であったから、キプチャク汗国(*)の汗によってこの地位を安堵してもらう必要があった。しかし、それによって実益があったから、この権威をめぐる争いは熾烈を極めた。この覇権争いにおいて、リトアニアはトヴェーリの後ろ盾となっていた。なお、アルギルダスの2度目の妻ユリアナはトヴェーリ公ミハイル2世の姉である。(*)キプチャク汗国はモンゴルのチンギス汗の孫バトゥが、東欧遠征の帰路、ヴォルガ川下流に留まって1243年に建国した国で、それ以後2世紀余に亘ってロシア諸公を間接的に支配した。これが「タタールのくびき」といわれる時代である。

    (3)この堅固な石の城壁は1367年に17歳になったドミートリイが、近い将来かかる事あるべしと考えて構築したものであった。モスクワ公ドミートリ(在位1359年~1389年)は、父イヴァン2世が33歳の若さで没したため、僅か9歳で公位を継いだ。摂政として彼を補佐したモスクワの府主教アレクセイ(のちに列聖されて聖アレクセイとなった人)は優れた政治家でもあった。現在のモスクワのクレムリン(城塞)の城壁の歴史はここまで遡ることができる。

    (4)1360年代は、リトアニアに対するドイツ騎士団の攻撃が激化した時代であった。

    (5)これより前、モスクワの府主教アレクセイは、モスクワ公に歯向かったトヴェーリ公とスモレンスク公を即座に破門して一罰百戒としている。

    (6)当時、リトアニアの支配地域には多数のロシア人正教徒がいたため、アルギルダスは彼らを統治する目的で、コンスタンチノープル総主教からリトアニアに府主教座を獲得すること、そして、モスクワの府主教座を支配下に置くことを重要な政策課題としていた。ここに述べたアルギルダスの3度に亘るモスクワ攻めも、この府主教座をめぐる争いがその根底にあった。

    (7)このとき、トヴェーリ公ミハイル2世は、モスクワの妨害工作によって、キプチャク汗国のママイからウラジーミル大公位を受け損なったため、その報復としてモスクワ攻撃を企てた。

    (8)この講和条約は、それが調印されたオカ川河畔の村の名リュブツクをとって、「リュブツク条約」と呼ばれている。

    (9)「リュブツク条約」によって、トヴェーリ公はモスクワ公を兄として敬うこと、そして、ウラジーミル大公位の請求権を放棄することを約束させられた。

    (10)モスクワ公ドミートリイは、1380年9月、ドン川河畔のクリコヴォの原野で行われた「クリコヴォの戦い」で、キプチャク汗国のママイの大軍を破り、ドミートリイ・ドンスコイ(ドン川のドミートリイ)と呼ばれるようになる。この勝利はロシア人が「タタールのくびき」を断ち切る第一歩となった歴史的事件だが、ドミートリイは「リュブツク条約」締結の直後にキプチャク汗国への貢税納入を一旦停止している。

    (11)この頃から、モスクワは足元まで攻められながら辛うじて征服を免れ、最後に笑う者になる幸運に恵まれていたのだろうか。モスクワを救ったのはドミートリイの築いた堅固な城壁よりも、むしろ、リトアニアを悩ませたドイツ騎士団であったのかも知れない。

    $00A0$00A0(2013年4月 記)

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