「ミッドウェイ海戦」―【Ⅳ】/寺山進@クラス1955
記>級会消息 (2013年度, class1955, 消息)
旧友南雲忠彦君を偲ぶ
3. オアフ島初訪問
昭和35年(1960年)、やや長期に亘り米国に出張する機会があった。
業務を終え帰国が間近になったのでニュ-ヨ-クの支店に立ち寄った所、一通の電報を手渡された。開けてみると、当時パリ勤務だった南雲君からであった。
「最近一時帰国した際、君の消息を聞いた。帰りはヨ-ロッパ経由にして、是非パリに立ち寄ってくれ」という内容だった。
その様にしたいのは山々ではあるが、まだ入社後日も浅い平社員である。来る時はアンカレッジ経由だったので、帰りは日本航空の西海岸経由にして貰うのが精一杯だった。ハワイでの僅かな時間を観光に充てようという算段であった。
その旨返事をすると「困った事があったらこの人に頼めば良い」と、ある人の名前をホノルルの電話番号と共に知らせてくれた。
しかし、まずその必要もなかろうと思い、その電報を航空券に挟んだまま殆ど忘れかけていた。
当時は日航に乗る米国人など殆どいなかった。まして次の日の昼過ぎに東京へ発つ、乗り継ぎの不便な便である。夕方着いたホノルル空港で降りる乗客はまばらで、ロビ-も閑散としていた。
所がゲ-トでじっと待っていたらしい老夫妻が、手にしたレイを小生の首に掛けて「ミスタ・テラヤマだろう」と云う。咄嗟の事で「何事が起ったのか?」と仰天した。
小生の予定を確認すると「それなら安心だ。年寄りの出る幕でもないが、折角だからお茶でも飲もう」と誘われた。
南雲君からは「電話があったら宜しく」位の電報だけだったらしい。しかし「ナグモ・ボ-イから頼まれたら放っておく訳にはいかない」ので、この日の前後一週間位にホノルルに着く全便の乗客名簿を調べて、小生の名前を見つけたのだと云う。
話し始めて直ぐに、南雲提督とご一家に対するこの夫妻の深い尊敬と親愛の情が伝わってきた。米国海軍の退役軍人であって戦後も日本駐在を経験し、南雲一家には大変お世話になったとのことであった。
「あの時は何処に居たのか?」と聞いてみた。“・・at that time?”という英語もすぐに理解してくれたが、ただ黙って顎を「真珠湾」の方角にしゃくって苦笑いをした。
更迭されたキンメル太平洋艦隊司令長官に代わって赴任したニミッツ提督が、更迭を覚悟していた幕僚をそのまま留任させて、全軍の士気を高めたというのは有名な話であるが、この人もその幕僚の一人であった。
「ナグモ・フリ-トが強力だとは、さんざん警告されていた。いずれ対戦するこの強敵への対応策については、充分研究していた積りである。しかし、まさかこんな処までやって来るとは、夢にも思わなかった」と云って、彼は又苦笑いを浮かべた。
彼の提督に対する感情は、恰もノ-ベル賞を競い合っている最前線の科学者の様に思えた。競争相手であると同時に、同じ専門家同志の親近感とでもいえようか。
今でも実に残念なのは、この人の名前を書いた電報を紛失して仕舞った事である。いずれ南雲君に聞こうと思いながら、結局その機会を得ずに終わってしまった。
それ以上に後悔するのは、もっと彼の話を聞いておけば良かったという事である。少なくとも半日以上の時間が取れた筈で、オアフ島観光など二の次とすべきだった。事実オアフ島一周のバス・ツア-なら、公私含めて半ば義務的に、その後何度も参加しているのである。
しかしその時点では、再びハワイ観光に訪れる機会があるとは思えなかった。折角の機会を捨てて「アメリカ海軍側から見たミッドウェイ海戦や真珠湾攻撃、更には日本海軍の提督連中の評価」を聞いてみようなどとは、考えも及ばなかったのである。
今思えば、誠に浅はかなものであった。
後になって小生が太平洋海戦史にのめり込むにつれ、当然の事ながら山本五十六聯合艦隊司令長官が重要な検討の対象になる。
開戦に反対しつつも戦わねばならなかった悲劇とか、親米・知米派だとか云はれているが、今一つ納得できない所が出て来るのである。
駐米大使館勤務時代には、熱心に調査活動を行ったようだが、対象が生産設備や生産能力・資源量などに偏り、米国人の民族性や気質などにはあまり興味がない。従って米国人の知人・友人が一人もいない。又情報を軽視というか敵視し、多少それめいた業務に対しては部下に「そんなスパイみたいな事は止めろ」と云ったりしている。
一方、艦隊派の若手旗頭と云われた頃の南雲大佐は、対米英強硬派・好戦派とみなされていた。
種々調べていく過程で、ハワイでの出来事が段々気になってきた。どうも山本・南雲両提督のイメ-ジは、巷間言われている事と大分違うのではないか。
少なくとも山本長官に対する疑問は、生出寿氏の「凡将山本五十六」を読んで可なり解消された。
開戦劈頭のハワイ空襲やミッドウェイ攻略作戦計画への関与や狙いについても、説得性のある論旨が展開されていると思う。
山本フアンである半藤一利氏や阿川弘之氏の、山本はこうであって欲しいという「希望的五十六像」とはかなり異なる実像が描かれている。
戦後も七十年近くなって、戦時中の「山本五十六」人気を肌で知る世代も殆ど居なくなってしまった。若い世代が文献や資料で読むだけでは、半藤氏や阿川氏が「五十六」に肩入れする理由が分からないかもしれない。その分ハワイやミッドウェイでの山本、南雲両提督に対する評価が変わって来ているのではなかろうか。
前置きの積りで書いていた部分が意外に長くなってしまった。途中で結論めいた事まで挿入してしまった為でもある。次回からそろそろ纏めに入りたいと思っている。
2013年3月28日
2013年4月1日 記>級会消息