リトアニア史余談15:ヴィルニュスのルキシュキュー広場/武田充司@クラス1955
記>級会消息 (2012年度, class1955, 消息)
高い台座の上に立って右手を招くようにかざし、左手で外套の襟を掴んで怖い顔をしているこのレーニン像は、ソヴィエト連邦が崩壊してリトアニアが独立を回復して間もない1991年8月23日(2)、この広場に集まった群集によって撤去された。
この日、胸のあたりにロープが巻きつけられたレーニン像は、膝の部分で切り離され、クレーンで吊り上げられた。高い台座の上にはズボンをはいた2本の脚だけがぽつんと残り、1本のロープで吊り上げられた上体はバランスを崩し、前方に伸ばした右腕を少し下にして前のめりになり、あたかも集まった群集を上から覗き込むように傾いた。「やあ、君たち、さようなら、もうおしまいだ!」とでも言っているようなこの瞬間の映像は世界中に配信され、共産主義の専制から解放されたリトアニア人の高揚した気分を象徴する映像として一躍有名になった。そして、残された巨大な台座は、ハンマーを手にした群衆によってすっかり取り壊されてしまった。
ソ連時代に造られたリトアニア中のすべての銅像やモニュメントはこれと同じような運命をたどった。首都ヴィルニュスにあったソ連時代を象徴する銅像はすべて撤去され(3)、ヴィルニュス空港近くのアート・スタジオに集められ、文化財委員会によって保管された(4)。
〔蛇足〕
(1)ルキシュキュー広場(Lukiskiu aikste)のあたりは、19世紀中頃まではヴィルニュス市の郊外で、ルキシュケス(Lukiskes)という名の村であったが、1861年にこの場所に市場が開設されて以来、ヴィルニュスの新しい中心地として発展した。したがって、この方形の広場は市場の跡地である。
(2)この日はリトアニア人にとって忘れることのできない「秘密付属議定書」の付いた「独ソ不可侵条約」(俗称「モロトフ=リッベントロップ協定」)が1939年に調印された日である。「リトアニア史余談:国旗を掲げる人たち」参照。
(3)しかし、面白い例外もある。ヴィルニュスのネリス川にかかる「緑の橋」(Zaliasis tiltas)の像だ。
(4)このあと、これらの銅像はほとんど誰からも忘れられたようにひっそりと7年をアート・スタジオで過ごしたのち、思いがけない形でリトアニア人の前に再登場することになるのだが、その話は稿を改めて述べたい。
(5)リトアニアにおけるこの反乱は、ロシア皇帝アレクサンドル2世(在位1855年~1881年)が、皇太子時代に経験したクリミヤ戦争の敗北の教訓から取り組んだ改革のひとつである農奴解放政策の失敗が原因で起こった。この改革に失望したロシアの急進的知識人による革命運動、特に、1862年にペテルブルク帝国大学の学生によって起された過激な運動などがリトアニアに波及したものだ。ポーランドのワルシャワでは、1863年1月に大反乱が起こり、農奴解放と国民政府樹立を宣言して1年以上に亘ってゲリラ戦を展開したが、結局鎮圧された。
(6)KGBのロシア人は1991年8月にこの建物から退去した。そして、翌年にはリトアニ人の手によって地下監獄がKGB博物館として公開された。ソ連時代には、「この建物はリトアニアで最も高い建物だ、ここからはシベリヤまで見渡せるのだから」という悲しいジョークがあった。しかし、生きてシベリヤ送りになるのは稀で、殆どが拷問で死ぬか、拷問のあと銃殺された。また、この建物に向かって右手をかざして立っていたレーニン像を見て、人々は、「レーニンが、こっちに(KGBの地下監獄に)、おいでおいでをしている」と言ってこの像を嫌っていたという。なお、“Museum of Genocide Victims”がこの博物館の正式名称らしい。この博物館の入っている建物の左側(東側)に、ゲディミノ大通りと直角にアウクー通り(Auku gatve)という小さな並木道があるが、これを直訳すると“Victims’ Street”となる。この並木道の入り口には石を積み重ねて造った質素な記念碑があり、その前には花束が絶えない。
(7)あとで知ったのだが、あの当時(1995年当時)のKGB博物館のガイドの殆どが、あの監獄に入っていた生き残りの人たちだったという。あの時の案内人の薄気味悪い執拗な説明もこれで納得した。
(2013年3月 記)
2013年3月21日 記>級会消息