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  • 春の小川/斉藤嘉博@クラス1955

      昔々、今の代々木と幡ヶ谷を含む、小生が住んでいる辺りの豊島郡代々幡村は茶畑と牧場の原でした。

    渋谷区のスポーツセンターになっている隣地に明治牛乳の看板を掲げた一軒の古い家がその名残をとどめています。ここから東に坂をおりたところに小さな川が流れていました。黄色のかわいらしい花をつけるちょっとハスに似た「こうほね」が咲いていたので河骨川とよばれていました。春になるとあたりには蓮華やすみれが咲くやわらかい起伏のあるのどかなところだったようです。その風景に魅せられた文学者の高野辰之氏が作詞したのがいまでも歌われている春の小川。1912年のことでした。時は100年を経てこのあたり住宅が建ち、川は暗渠になってもはや当時の面影はまったくありません。その一角、小田急の線路沿いの小さな公園に昔の由緒を記す黒曜石の碑が建っていて、そこに小川の流れる野原の風景が刻んであります。今の街なかの子供たちにはこんな自然はないな、世の中悪くなったものとしみじみと感じさせる絵です。
      

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    $00A0   暗渠になった
         春の小川
    $00A0 碑に名残をとどめる
      春の小川

      この碑から道を隔てて代々木公園がひろがっています。現在のNHKの敷地やオリンピック競技場を併せて昔は広い代々木練兵場があったところ。春の小川の歌ができたころ、今から百年前には徳川、日野両氏が日本で初めて飛行機を飛ばしたところです。園内には顕彰の碑が作られ、当時のファルマン機とグラーデ機のプロペラは科学博物館に展示されていました。戦後ここがグランドハイツから東京オリンピックの選手村になって後、東京都の公園に衣替えをしました。春は桜、秋はかえで、イチョウ、それに沢山のヒマラヤスギやケヤキの木などを見上げることが出来る自然が広がっています。その広さは54ha、同じように練兵場だった日比谷公園の3.4倍の広さがあります。もっともハイドパークは140ha、セントラルパークは340haですからとても広いとは自慢できません。それでも園内には雑木林あり広場あり、犬のためのドッグラン広場あり。
      

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      $00A0代々木公園
       都心の雑木林

      春とは名ばかりの2月の初旬、この公園を散歩すると人はまばら。しかし陽だまりには犬を連れたカップル、本を読む人、ベンチで青い空を見上げるお年寄りなど。この公園の落葉樹のなかではもっとも数の多いケヤキの枝に正月に遊んだ凧がかかって風に揺れていました。この公園には一周1.8Km余の気持ちのいいサイクリングコースがあって、子供たちが園内の貸自転車で走り廻っています。私も折々走ります。自然はどんどんなくなっていきますが、自然を離れて暮らすことのできない人間はなんとか場所を工面して公園を作りそこに自然を求めているのです。と気づいて東京の大型公園である光が丘公園と舎人公園とを訪れてみました。
      
      光が丘(練馬区)と言えば大きな団地とゆう印象でした。ここも昔は飛行場で戦後米軍のハイツそして公園へと来し方は代々木とよく似ています。団地と隣り合わせの60haの園内には同じように広場や子供たちの遊技場など。自然保護林として一部に森がのこっています。そして観察舎を備えたバードサンクチュアリーには池の周りにアオサギなどの鳥がのんびりと陽を浴びていました。すぐ隣にこうした公園のある団地に住まれる方々は幸せですネ。
      
      中央に大きな池をもって作られた60haの広さをもつ足立区の舎人公園はまだ新しいこともあって木々は若く、ゆったりとした傾斜面には人工芝生を敷いたソリゲレンデがあり子供たちがはしゃいでいました。小高い“あさひの広場”からは東京タワーからスカイツリー、都心、新宿の高層ビル街が一望できます。「今日はダメだが冬晴れの寒い日には富士はもちろん筑波、男体まで見えるヨ」と通りがかりの老人が教えてくれました。道を隔ててのかなりひろい面積のバードサンクチュアリーは改修中で楽しむことはできませんでしたが、都会化する街の中で鳥たちはこうした森を巣にしているのです。舎人ライナーの駅に近い公園入口の噴水から大池まで石畳で舗装された200mほどの広い歩道の中央に小川を模して自然石を配して造られた流れが走っていました。冬の日に水の流れはありませんでしたが、春になると蝦やメダカや小鮒の群れはいなくても、声をそろえて小川の歌をうたえと子供たちにささやいてはくれるのでしょう。春の小川はいまこんな人工川となって息づいているようです。

    1件のコメント »
    1. 東京駅発、有楽町・霞が関・溜池・六本木・材木町や箪笥町(懐かしい町名です)青山・渋谷・駒場・東北沢を経てはるばる幡ヶ谷に至る都営バス路線がありました。月に1~2度位は所要で上京していた20年間の地方暮らしの間、この路線に乗る機会が多く、沿線の変わり様を見て来ましたが、平成になってもまだまだ変化し続けているようですね。
      渋谷付近は二度乃至三度位の大幅な変化があったような感じがします。幡ヶ谷から東北沢あたりは少しづつ何時の間にか変わったなと云った印象。六本木は最近になって又、大幅に変わっています。
      先日、大橋兄の大作を見に国立新美術館に行きました。地図では目の前の徒歩4分と云う距離なのに、迷ってしまっていつの間にか元の地下鉄駅に戻っていました。

      コメント by 寺山進 — 2013年3月6日 @ 11:37

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