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  • リトアニア史余談13:ピレナイ砦の悲劇/武田充司@クラス1955

     圧倒的な敵の大軍に包囲され、もはや助かる道はないと悟った人たちが、城に火を放って全員自刃するという悲劇は、昔のリトアニアにもあった。

    中世の大国リトアニアの基礎を築いたゲディミナス大公(在位1316年~1341年)時代の末期に、リトアニア西部のジェマイチア地方で起こったピレナイ砦の集団自決事件は、当時の西欧キリスト教世界の人々に大きな衝撃を与えた。そして、19世紀以降、改めて歴史的研究も進められ、この悲劇をテーマにした作品もつくられるようになったと言われている。

     1336年2月、ドイツ騎士団総長ディートリヒ・フォン・アルテンブルグは、西欧諸国から集まってきた多数の「北の十字軍」志願者によって補強された大軍を率いて、異教徒の国リトアニアに大規模な攻撃を仕掛けた(※1)。

    リトアニア西部のジェマイチア地方に侵攻したドイツ騎士団の大軍に包囲されたピレナイの丘砦(※2)には、周辺の4つの村落から婦女子を含む多数の住民が家財道具などを携えて避難していた。首領マルギリスに率いられた勇猛なジェマイチア人兵士は果敢に戦ったが(※3)、ついに丘砦の防壁が破られ、人々は敗北を覚悟した。すると、砦の中の人々は一切の持ち物を巨大な火の中に投げ入れて燃やした。そのあと、男たちは婦女子を殺害し、亡骸を燃えさかる火の中に投げ入れ、死者の霊が煙となって天上の楽土に昇って行くのを見届けると、自分たちも自害して果てた(※4)。

     この戦いによって多数のジェマイチア人が捕虜となり、強制的にカトリックに改宗させられたといわれているが、それ以上に多くの人々が、敵に降って捕虜となることよりも自害して果てる道を選んだという。そして、この凄惨な集団自決は、戦いに参加した西欧キリスト教世界の騎士たちに大きな衝撃を与えた。
     このようなジェマイチア人の行為は、彼らの生死観、あるいは、キリスト教受容以前のバルト族の古い信仰に根ざしたものであると考えられる。彼らは、自らの命を絶つことによって、既に死して天空の霊魂世界に去った家族のもとに行き、再び平和な共同生活にもどることができると信じていた(※5)。

     〔蛇足〕

    (※1)ドイツ騎士団(Deutscher Ritterorden)はチュートン騎士団(The Teutonic Knights)とも呼ばれるが、初期十字軍時代に誕生した3大十字軍騎士団のひとつであった。したがって、ドイツ騎士団の正式名称は「エルサレムのドイツ人の聖マリア病院修道会」(The Order of the Hospital of St Mary of the Germans in Jerusalem)である。ドイツ騎士団は、他の2つの騎士団、すなわち、テンプル騎士団(神殿騎士団)と聖ヨハネ騎士団(病院騎士団)よりも遅れて結成されたため、十字軍騎士団としての立場はこれら2つの先輩騎士団より弱かった。このことが、のちに、ドイツ騎士団を北東ヨーロッパに向かわせることになった。なお、こうした騎士団は「騎士修道会」と呼ばれるが、「修道騎士団」とか単に「騎士団」と呼ばれることが多い。ドイツ騎士団は、一時、ハンガリーに進出したが定着せず撤退した。そして、その直後の1225年、プロシャ人(リトアニア人と同じバルト族の一派)の反乱に手を焼いていたポーランドのコンラート公の招きで、ポーランド北西部のバルト海岸に近い地域に入植した。ここから、その後、200年に及ぶバルト族と争いがはじまったのである。リトアニアがこの地域における中世の大国となったのも、このドイツ騎士団との過酷な戦いによって鍛えられた結果であると言えよう。200年に及ぶこの恐るべき侵略者との戦いは、1410年の「ジャルギリスの戦い(Zalgirio musis)」にリトアニア大公ヴィタウタス(Vytautas)が勝利して決着した。その後、ドイツ騎士団は衰退し、やがて世俗国家となってプロイセン帝国へと発展することになる。なお、「ジャルギリスの戦い」はリトアニア人の呼び方で、ドイツ人や一般の西欧人は「タンネンベルクの戦い」とか「グリュンヴァルトの戦い」と呼んでいる。

    (※2)ピレナイ(Pilenai)の丘砦があった場所は、以前から、カウナスより下流のニェムナス川右岸(北岸)であろうといわれていたが、近年、研究が進んで、ニェムナス川より北に30km以上も離れたラセイニャイ(Raseiniai)地方にある複数の土塁のどれかであろうといわれている。

    (※3)ジェマイチア(Zemaitija)地方の人は、現代のリトアニア人の間でも、頑固で剛直な人たちとして知られている。リトアニアの中心部の人たち、いわゆる、アウクシュタイティア(Aukstaitija)の人たちは、歴史的には、勇猛なジェマイチア人にずいぶん助けられた。

    (※4)この話には、これと少し異なった言い伝えもあり、さらに、このあと、首領マルギリスがどうなったかの話もあるが省略する。

    (※5)キリスト教受容以前のバルト族の古い信仰では、人の霊魂にはヴェレ(Vele)とシエラ(Siela)の2種があって、乱暴な解説をすると、ヴェレは「冷たい霊」でシエラは「温かい霊」である。人が死ぬと、その人のヴェレは天上界に去って行き、「霊の丘」という所で先祖の霊と共に皆で暮らすことになるが、シエラは死者の最後の一息によって肉体から吐き出されて地上に留まり、身近に存在する樹木や花、鳥などに宿ると信じられていた。なお、「霊の丘」は天上界の幻影に過ぎず、本当の天上界はこの丘の遥か彼方にあり、そこに辿り着くには長い旅が必要だという。ラトヴィアの民謡に「あの丘の彼方に、お母さんがいる、そこには太陽が輝いている・・・」というのがあるそうだが、これも昔のバルト族の信仰の名残かもしれない。

    (2013年1月記)

    1件のコメント »
    1. 「ビルナイ砦の悲劇」のような話は、昨年6月にトルコを旅行した際に、クサントス遺跡で聞きました。紀元前540年頃、ペルシャの大軍の猛攻に平野で敗れたリキア軍は、アクアポリスに籠城したが、最後は女性と子供を殺して戦い、全軍戦死しました。城の将軍は、砦の後ろの絶壁から川に身を投げたそうです。後年、ローマのブルータスによる攻撃で、再び多くの戦死者を出して苦難に見舞われ、悲劇が繰り返されました。
      このような話を聞くと、逆の例として、私は郷里岡山県の備中高松城主、清水宗治の切腹を思い出します。「本能寺の変」を知らなかったためとはいえ、城主の命と引き換えに、羽柴秀吉との講和を受け入れ、城兵と城下町の人々の多くの命を救いました。徹底抗戦していたら、日本の歴史も大きく変わっていたと思います。明治維新でも、勝海舟が西郷隆盛と会談して、江戸の町は戦火を免れました。
      現在の日本の置かれた厳しい状況を克服するためには、日本人ひとりひとりの形勢判断と責任感が、切に望まれます。

      コメント by 大橋康隆 — 2013年1月16日 @ 19:12

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