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  • リトアニア史余談12:国旗を掲げる人たち/武田充司@クラス1955

     リトアニアの人たちはいろいろな記念日によく国旗を掲げる。

    朝、街に出て、あちこちで国旗が掲げられているので、今日はきっと何かの記念日なのだろう、それなら、官公庁や学校など休みかも知れないと思うと、殆どそうではない。どこでも通常通り仕事をしている。その様子は現在の日本と正反対だ。日本では国が定めた祝祭日は多いが、仕事を休むだけで国旗を掲げる家や事務所など殆ど見かけなくなった。リトアニアでは、国が定めた休日は少ないが、大多数の国民が国旗を掲げる特別な日が多い。
     もっと驚くことは、国旗の上に黒いリボンをつけて掲げる日があることだ。6月14日、6月15日、8月23日、そして、9月23日である。これらの日は、第2次世界大戦時代にリトアニア人が経験した悲惨な出来事に結びついている。黒いリボンをつけた国旗が溢れている首都ヴィルニュスの静かな街を歩くと、彼らの歴史を知らない外国人でさえ心を動かされる。

     そこで、歴史的順にこれらの日をたどってみる。第2次世界大戦前夜の1939年8月23日、独ソ不可侵条約が結ばれた。この条約は、署名したソ連とドイツの両外務大臣、モロトフとリッベントロップの名を冠して、「モロトフ=リッベントロップ協定」と呼ばれているが、この不可侵条約には「秘密付属議定書」がついていた(※1)。第2次世界大戦後、リトアニアを含むバルト3国がソ連に併合されたのは、ドイツの敗北が直接の原因だとしても、この「秘密付属議定書」の存在は無視できない。リトアニア国民にとって8月23日はそういう日なのだ。

     「モロトフ=リッベントロップ協定」が結ばれてから9日後の1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに電撃的侵攻を開始して第2次世界大戦が始まった。ソ連軍も同年9月17日ポーランドに侵攻し、当時ポーランド領だったヴィルニュス地区を占領した。そして、それまで中立を守っていたリトアニアは、同年10月10日、「リトアニア=ソ連相互援助条約」を強制され、ソ連軍の駐留を許した。それから1年も経たない1940年6月15日、リトアニアはソ連軍の管理下に置かれた(※2)。

     それからまた1年経った1941年6月14日の早朝、突如、ソ連軍によるリトアニア人の強制大移動が始まった。身のまわりの物をまとめる時間もないような突然の追い立てに多くの市民は何が起こったのかさえ理解できなかった。この日だけで、リトアニアから1万8000人の市民が極北の地やシベリアのキャンプへ移送された(※3)。

     しかし、悲劇に見舞われたのはリトアニア人だけではなかった。ソ連軍によるリトアニア人の強制移送が始まって8日後の1941年6月22日、ドイツは独ソ不可侵条約を破棄してソ連に宣戦布告し、その2日後の6月24日には早くもドイツ軍がヴィルニュスを占領した。リトアニアに進駐してきたドイツ軍は8月末にヴィルニュスにゲットーをつくり、そこにユダヤ人を集め始めた。そして、ホロコーストが始まった。それからほぼ2年経った1943年9月23日、無人となったゲットーは破壊された(※4)。こうして、かつて「北のエルサレム」と呼ばれたヴィルニュスの豊かなユダヤ人社会は消滅した(※5)。

    〔蛇足〕

    (※1)当初、この秘密付属議定書では、リトアニアはドイツが取得することになっていた。また、ポーランドが占領していたリトアニアのヴィルニュス地区はリトアニア固有の領土としてリトアニアに帰属するとされていた。しかし、同年(1939年)9月28日、リトアニアに関する条項が変更され、リトアニアの南部国境地帯のみがドイツに帰属し、リトアニアの大部分はソ連が取得することになった。ところが、1941年1月10日の新条約によって、この南部国境地帯も750万ドルの補償金と引き換えにソ連に譲渡された。こうして、最終的に、ヴィルニュス地区を含む全リトアニアがソ連の支配下に入ることになった。

    (※2)この年(1940年)の5月、リトアニアに駐留していたソ連軍の軍人が誘拐されるという事件がでっち上げられた。リトアニア政府はこの言い掛りを何とか穏便に処理しようと努めたが、6月14日夜、モロトフはリトアニア外相ウルブシスをクレムリンに呼び出し、最後通牒を手渡した。翌朝、この最後通牒を受諾したリトアニアは直ちにソ連軍の管理下に置かれ、第1次世界大戦後20年続いた独立国リトアニアは消滅した。

    (※3)この日の早朝から始まった住民の強制移送は、リトアニアだけでなく、ラトヴィア、エストニアでも同時に開始されていた。移送された人々の40%は16歳以下の子供だった。そして、送り出された者の半数以上が死んだ。首都ヴィルニスの東郊外にある小さな町、ナウヨイ・ヴィルニア(Naujoji Vilnia:現在はヴィルニス市の一部になっている)の駅は、彼らが家畜のように貨車に詰め込まれて故郷を後にした場所である。ソ連崩壊後独立を回復したリトアニアは、すぐさまこの場所に十字架を背負って喘ぐキリストの像を建てた。そこにはまた、彼らを詰め込んで運んだ貨車も保存されている。毎年、6月14日になると大勢の人がここを訪れ、レールの上にそれぞれの思いをこめて花束を手向けている。6月のリトアニアは爽やかな美しい季節である。レールの上に並んだ沢山の花々は、リトアニア人の「悲しみと希望」を象徴している。

    (※4)1942年1月、ゲットーのユダヤ人がドイツ軍に対する組織的な抵抗運動を始めたため、ドイツ軍はゲットーの撤去を決め、同年7月から大量虐殺を始めた。そして、1943年9月23日から翌日にかけて、生き残ったユダヤ人を強制労働に就かせるためエストニアに移送してゲットーを破壊した。なお、1941年秋にヴルニュス南方約20kmにある小村パネリェイ(Paneriai)でドイツ軍によるユダヤ人の大量虐殺があったが、このときの詳細は今も語り継がれている。この当時、多数のリトアニア人がドイツ軍に協力してユダヤ人虐殺に手を染めたが、自らの命を賭けてユダヤ人を助けたリトアニア人もいた。しかし、大戦前に25万人以上いたリトアニアのユダヤ人のうち、ホロコーストを生き延びたのは僅か5%ほどであった。

    (※5)ヴィルニュスにあった105のシナゴーグは、ピーリモ通り(Pylimo gatve)39番地の1つを残して消滅した。

    (2012年12月 記)

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