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  • リトアニア史余談11:ヴィルニスの路面電車/武田充司@クラス1955

     リトアニアの首都ヴィルニュスの市内には路面電車は走っていない。その代わりに旧ソ連東欧諸国でよく見かけるトロリーバスが市内を縦横に走っている。

    真ん中に蛇腹のついた2両連結の大きなトロリーバスは市内だけでなく郊外のベッドタウンと市内を結ぶ重要な交通手段である。
     ソ連が崩壊して独立を回復したリトアニアは、1990年代前半にひどいインフレと経済的困難に見舞われたが、90年代後半になって経済が急速に回復してくると、ヴィルニュスも自動車の増加で交通渋滞が深刻になった。そのころに地下鉄建設も話題になったが、多額の資金を必要とする地下鉄は無理だということで、すぐに立ち消えになったように記憶する。それなら、ヨーロッパの古い都市でよく見かける路面電車がよいのではないかと誰もが考えるのだが、実際、ヴィルニュスでもずいぶん昔に路面電車建設の計画があった。
     20世紀の初めにヴィルニュスでも路面電車を走らせる計画がもち上がり、1908年、工事資金10万ルーブルを積んだ郵便列車がペテルブルクからやってきたのだが、ヴィルニュスまでもう少しという所まで来たとき、列車強盗に襲われた(*1)。郵便列車を襲って資金を強奪して逃げたのはユーゼフ・ピウスツキというリトアニア系ポーランド人を首領とする一味だった。この当時、こうした列車強盗による現金強奪は流行していた。この事件のあった前年にも、グルジアのトビリシ近くで似たような事件があったが、それは、あのスターリンの仕業であったという。日露戦争が1905年9月に終って、衰退著しいロシア帝国内には革命の足音が聞こえていた。列車強盗の流行はこうした社会の雰囲気の中で起った。強奪された現金は革命の炎を燃え上がらせる燃料の一部となったのだが、ヴィルニュスの路面電車計画はこの事件によって立ち消えとなった。

     ユーゼフ・ピウスツキは、1867年12月、リトアニアの首都ヴィルニュスから北東に50km余り離れたベラルーシとの国境に近い小さな町ザラヴァス(Zalavas)で生まれた。彼の家は当時没落していたようだが、れっきとしたリトアニア貴族の家柄であった(*2)。1887年、20歳になったピウスツキはロシア皇帝アレクサンドル3世の暗殺計画に連座してシベリア送りになったが、このとき、レーニンの兄を含む首謀者たちは死刑となった。シベリアから戻ったピウスツキはポーランド社会党のヴィルニュス支部に加わり、帝政ロシアの支配に反対する非合法活動を開始した。しかし、1900年にまた捕らえられ、ワルシャワの監獄に入れられたのだが、発狂したと見せかけ、ペテルブルクの精神病院へ移送されたときに首尾よく脱走した。そして、日露戦争が勃発すると日本を訪れ、蜂起計画への援助を求めて歩いたがそれは徒労に終った。

     第1次世界大戦末期には占領軍であるドイツ軍に非協力の態度を貫いたため、マグデブルクの牢獄に監禁されたが、ドイツ帝国の崩壊とともにワルシャワに帰還し、ポーランド独立運動の立役者となった(*3)。彼は現代ポーランド国軍の創設者であり、元帥となった。そして、第1次世界大戦が終って独立を回復したポーランド共和国において、初代の国家元首となり、「建国の父」と呼ばれるようになった。現在、ポーランドの首都ワルシャワの中心部には「ピウスツキ元帥広場」があり、広場の東端にはユーゼフ・ピウスツキ元帥の銅像が聳えている。

     しかし、リトアニアの人々にとって、ユーゼフ・ピウスツキの名は、10月9日の「国民が喪に服すべき日」とともに、深い遺恨の情を呼び起こすものとなっているようだ(*4)。

    〔蛇足〕

    (*1)ヴィルニュスの北東20km弱にベズドニス(Bezdonys)という小さな町があるが、郵便列車はここで襲われた。

    (*2)ユーゼフ・ピウスツキ(Jozef Pilsudski)はヴィルニュスの中学校に学び、その後、当時閉鎖されていたヴィルニュス大学の構内に設けられていたロシア語学校に通った。1886年にウクライナのハリコフ大学に入って医学を学んでいる。したがって、ロシア皇帝暗殺計画に連座したのは大学に入った翌年である。

    (*3)ポーランド独立運動におけるピウスツキの立場は反ボリシェヴィキであり、しかも、ドイツやロシアなど外国の力にも頼らない頑固なものであったから、多くの困難に直面した。

    (*4)ピウスツキは、小さいときからの教育によって、1569年の「ルブリンの合同」によってリトアニアがポーランドに併合された後のポーランド連邦王国の再興を夢見る大ポーランド主義者であった。それ故、1920年10月9日、再度、ヴィルニュスを占領したのだろう。しかし、リトアニアの多くの人々は、それ以前の中世の大国であったリトアニア大公国の復活、とまで行かなくとも、ポーランドとは別個のバルト族のリトアニア国家再興を考えていたから、ピウスツキのやり方は受け入れられなかった。これは不幸な食い違いであった。1935年、67歳で亡くなったピウスツキの遺体はクラクフのヴァヴェル城の大聖堂に葬られたが、彼の心臓はヴィルニュスに運ばれ、彼の母マリアの遺骸とともにラスー墓地(Rasu kapines)に埋葬された。当時、ヴィルニュスはポーランド領内にあり、彼の母の遺骸はヴィルニュスの北方約60kmのリトアニアの町モレタイ(Moletai)近くの墓地に葬られていたのだが、それを掘り起こし、国境を越えてヴィルニュスに運ばれた。

    (2012年11月 記)

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