リトアニア史余談10:丘の上の砦 /武田充司@クラス1955
記>級会消息 (2012年度, class1955, 消息)
リトアニアにおける丘砦の歴史は非常に古い。考古学的な調査によると、紀元前1~2世紀頃には既に存在していたという。それらは外敵の襲撃から身を守るために、部族の避難所として造られたものだと推測されている。そうした古い丘砦は川の蛇行地点や湖に突き出た半島部などに造られた。8世紀から11世紀にかけては、ヴァイキングがやってきたので、彼らの襲撃に備えてバルト族が造ったものや、逆に、侵入したヴァイキングが前線基地として築いたものも現れた。
13世紀中頃以降になるとリガの帯剣騎士団やプロシャに進出したドイツ騎士団との戦いが激化したため、非常に多くの丘砦が築かれるようになったが、これら中世の丘砦は単なる避難所ではなく、要塞としての機能を備えた軍事拠点であった。その当時は、リトアニア国内だけでも1000を越える丘砦が存在していたらしい。したがって、中世のリトアニアは「丘砦の国」であった。現在でも、リトアニアには450ほどの丘砦の丘が残っているが、その半数は13世紀後半以降に造られたものである。
リトアニアの伝説の中には、丘砦の丘だけでなく墓地として造られた丘など、丘そのものの構築にかかわる話も多く残されている。丘砦の丘としては、たとえば、女たちが前掛けで土を包んで運んできて造った丘というのがある(5)。また、これは埋葬の場となった丘の話だが、地方の豪族の首領が、そこを通る全ての人間に、通行税のような形で土を持って来させたからできたという丘もある(6)。さらに、侵入してきたスウェーデン人兵士(ヴァイキング)が帽子で土を運んで造った丘というのもある(7)。極め付きの傑作は、「ナポレオンの帽子」と呼ばれている丘にまつわる伝説だろう。暖かい夏の日、モスクワ遠征に向かうナポレオンが通りがかり、そこで食事をしようとしたのだが適当な場所が見つからない。そこで、兵士に命じて帽子で土を運ばせて丘を築き、その丘の上で食事をしたというのだ(8)。これは、いかにもナポレオンのイメージに相応しい伝説だ。
こうした伝説は殆ど事実ではないが、そこに込められた隠喩から、高い山のないリトアニアでは、丘は貴重な存在で、丘砦の丘をはじめとして様々な丘が、如何に多くの人間の労働によって築かれたのかを知ることができる。
〔蛇足〕
(1)ユオザピニェ(Juozapine)の丘は首都ヴィルニュスの南東約30kmにあり、その向こう側はベラルーシとの国境である。
(2)こうした砦が築かれていた丘はリトアニア語でピリアカルニス(piliakalnis)と呼ばれている。また、丘の上に築かれた砦は英語でヒルフォート(hill fort)と訳されているので、「丘砦」はそれに倣った。
(3)とは言え、森はバルト族にとって天然の武器であった。彼らは、深い森とその中に点在する湖や湿地が迷路のように入り組んだ地形を利用して戦うゲリラ戦の天才であった。それは、第2次大戦終結後の反ソ抵抗ゲリラ「森の兄弟たち」にまで受け継がれている。
(4)この丘は、傍らを流れるニェムナス川の支流イェシア(Jiesia)川の名をとって、「イェシア丘砦の丘」と呼ばれていたが、ナポレオンがやって来たあと「ナポレオンの丘」という綽名がつけられた。
(5)この丘は、リトアニア西部の都市タウラゲ(Taurage)の東方約10kmのユラ(Jura)川のほとりにある。
(6)この丘は「聖ヨハネの丘」と呼ばれ、リトアニア北西部の都市テルシャイ(Telsiai)の北西約20kmのジェマイチュ・カルヴァリヤ(Zemaiciu Kalvarija)のヴァルドゥヴァ(Varduva)川のほとりにある。
(7)この種の丘は幾つかあるが、たとえば、(5)で挙げたジェマイチュ・カルヴァリヤの丘の近くにある「セダ丘砦の丘」は好例であろう。この丘はリトアニア北西部の都市セダ(Seda)のヴァルドゥヴァ(Varduva)川のほとりにあり、軍事的にも優れた丘である。
(8)「ナポレオンの帽子」(Napoleono Kepure)は、その形からこのように呼ばれているらしいが、カウナスの南方、国道105号線沿いのプリエナイ(Prienai)郡にあるので「プリエナイの丘」とも呼ばれている。
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2012年10月21日 記>級会消息