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  • リトアニア史余談9:バルト海の琥珀と「琥珀の道」/武田充司@クラス1955

     古代ローマ帝国が栄えていた時代、バルト海の琥珀を帝国の都ローマに運ぶ「琥珀の道」(アンバー・ロード)があった。

    リトアニアは「琥珀の国」とも呼ばれ、嵐が去った翌朝、海岸の砂浜に行けば琥珀が拾えるという話は今でも聞かれるが、有史前からバルト海岸に住んでいたバルト族にとって琥珀は重要な産物であった(1)。リトアニアの民話や伝説の中で最も美しく多くの人に愛されている話は琥珀にまつわる物語である(2)。
     「琥珀の道」は紀元前1世紀頃から3世紀頃まで盛んに使われていたが、北の起点はポーランドのグダンスク(旧ダンツィヒ)辺りであったらしい。そこからヴィスワ川沿いに現在のポーランド領内を南下し、途中でヴィスワ川を離れてヴァルダ川上流のカリシュを経て、ヴロツワフ(旧ブレスロウ)からチェコのブルノを通ってウイーンに至る。ウイーンからはオーストリア・アルプスの東側をまわってアドリア海の北端モンファルコーネ付近に出てヴェネチア経由でローマに入ったものと思われる。はじめのうちは専らこのルートが使われていたようだが、2世紀に入ると治安の悪化が原因でカリシュ・ウイーン間のルートが廃され、この間はそれまでよりも東寄りのモラヴィア・ルートが使われるようになったといわれている。しかし、これとは別に、黒海に抜けるルートもあった。
     琥珀は古代ローマ人の間で「北の黄金」と呼ばれていた。彼らにとっと琥珀は高価な貴重品であり、贅沢な生活の象徴でもあった。皇帝ネロ(在位54年~68年)は、多くの軍人や商人をバルト海沿岸地方に派遣して琥珀を集めさせたと伝えられている(3)。こうしてローマに集められた琥珀は円形闘技場の装飾にも使われ、そこで戦う剣闘士たちの衣装を飾った。ネロは自作の詩の中で、彼の2番目の妻ポッパエア・サビナの髪の色を「琥珀色」と表現している。皇帝にとって、そして、すべてのローマの貴族たちとっても、琥珀は富と権力の象徴であり、古代ローマ社会は巨大な琥珀の消費地であったようだ。
     現在、ロシア領の飛び地となっているカリーニングラード州北部のサンビア半島地方は、昔から琥珀の主要な産地であった。この地域に住んでいた西バルト族の一派プロシャ人は琥珀によって古代ローマ人に知られていたらしい(4)。13世紀にドイツ騎士団がこの付近に入植してプロシャ人が絶滅すると、琥珀の利益はドイツ騎士団によって独占された。この騎士団国家がやがて世俗国家プロイセンとなるのだが、この間ずっと、サンビアの琥珀はドイツ人に富をもたらした。サンクト・ペテルブルク郊外のエカテリーナ宮殿の「琥珀の間」を飾った莫大な琥珀もまたここから供給された。そして、現在は、ブルドーザーで海岸を掘り起こすような工業化された琥珀供給基地となってロシア人に富をもたらしている。

    〔蛇足〕

    (1)琥珀の学名はサクシナイト(succinite)であるが、現存しない松の一種“amberrich pine”と俗称される学名“pius succinifera”という木の樹液が固まって化石となったものだ。新生代第三期の始新世(Eocene:5300万年前~3400万年前)の末期に、この樹木が現在のバルト海地域を覆っていた。その後、氷河期がおとずれ、最後の氷河期が終ると北欧を覆っていた厚い氷の層が融け、この地域は広大な海となった。しかし、厚い氷の重みから解放された大地は徐々に隆起し、現在のような湖の多い低地と浅いバルト海が形成された。琥珀は密度が1.05~1.10と軽いので生成された場所に長く留まることなく、川の流れや洪水で低地へ押し流されてゆく。そして、バルト海という盆地に流れ込んだのが「バルト海の琥珀」である。嵐のあとは、海岸付近の浅い海底に埋もれていた琥珀が強い波の作用で海岸の砂浜に打ち上げられる。琥珀(英語でアンバー〔amber〕)は、ギリシャ語でエレクトロン、すなわち、「電気」という英語のもとになった語である。実際、琥珀は毛皮などとの摩擦で負に帯電し易い。古代ギリシャ人もバルト海の琥珀を手にしていたようだ。リトアニア語で琥珀はジンタラス(gintaras)、ドイツ語ではベルンシュタイン(Bernstein)である。ドイツ語の場合、“bern”は動詞“brennen”から派生したものだから、これは「燃える石」という意味になる。実際、琥珀は樹脂だから燃える。燃えるときの匂いを嗅げば贋物か否か直ぐ分かるとリトアニア人はいう。リトアニア北西端のバルト海に面するリゾート地パランガ(Palanga)には、質量ともに世界屈指の所蔵点数を誇る「琥珀博物館」があるので、パランガに行ったら是非訪れて欲しい。建物自体が昔の貴族の館で一見の価値がある。

    (2)「海の女神ユラテ(Jurate)と漁夫カスティティス(Kastytis)の悲恋伝説」が最も有名である。バルト海の琥珀は、海底にあったユラテの琥珀の宮殿が破壊されたときにできた破片だと昔の人は信じていた。

    (3)これは老プリニウス(紀元23年生~79年没)の「博物誌」に出てくる記述。

    (4)タキトゥスの「ゲルマニア」に出てくる「海岸で琥珀を拾い集めるエスティ(Aesti)」という部族はおそらく古プロシャ人であったのだろう。

      (2012年9月 記)

    2 Comments »
    1. 琥珀についてとても詳しく書かれています。女神ユラテの物語が好きです。母の宝石箱にあります。何故か癒される宝石です○o。.ユラテの涙とも言われています。

      コメント by 岡田 — 2013年1月23日 @ 00:22

    2.  岡田様、コメント有難う御座います。僕もぬくもりのある琥珀の魅力に取りつかれた人間のひとりです。琥珀がユラテの涙だという話は僕も聞いたことがあります。おそらく、幾つかの異なった言い伝えがあったのでしょう。
       リトアニアが生んだ最大最高の芸術家(作曲家にして画家である)チュルリョーニスはユラテとカスティティスの悲恋物語に魅了されてオペラを作ろうとしました。彼がこの物語を知ったのは、妻のソフィヤ・キマンタイテ(Sofija Kymantaite)からだったといわれています。すっかりこの物語が気に入ったチュルリョーニスは、彼女に台本を書かせ、作曲の準備に余念がなかったようですが、結局、このオペラは実現しませんでした。しかし、チュルリョーニスが描いた舞台装置の「琥珀の宮殿」などのスケッチは残っています。ユラテはリトアニア語の「海」(Jura:ユラ)という語から派生した女性名ですが、美しい響きをもった名だと思います。

      コメント by 武田充司 — 2013年1月24日 @ 11:59

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