• 最近の記事

  • Multi-Language

  • リトアニア史余談8:ヴィルニュス遷都伝説と神官 /武田充司@クラス1955

     「バルト海から黒海まで」といわれた中世ヨーロッパの大国リトアニアの基礎を築いた名君ゲディミナス大公が都をトラカイからヴィルニュスに移す決断をしたことに関して、次のような有名な伝説が残されている。

     ゲディミナス(1)がある時、狩りに出て帰りが遅くなったので、一夜をヴィルニャ川(2)近くの森の中で過ごした。そのとき、森の下草の中に鉄の鎧を着た狼が現れて吠える夢をみた。彼は弓を取り、狼めがけて幾本もの矢を射たが、狼は全く動ぜず、矢はむなしくはね返された。翌朝、夢から覚めたゲディミナスは、お供の神官リズデイカにその夢の意味を尋ねたところ、「鉄の鎧を着た狼は、この川の合流点にある丘の上に築かれた城であり、その城は夢の中に現れた狼にように難攻不落である。故に、その夢は、その丘の上に城を築けという神のお告げである」と神官リズデイカが答えた。ゲディミナスは、早速、その地に城を築き、都を移した。これが現在のリトアニアの首都ヴィルニュス建設にかかわる伝説である。

     実際、「この川の合流点」とは、ヴィルニュスを貫通して流れるネリス川にヴィルニャ川が注ぐ地点であり、「合流点にある丘」とは、現在、「上の城」の一部として残っている塔が聳えている「ゲディミナスの丘」を指している。しかし、ヴィルニュスの歴史はこれよりずっと古く、ゲディミナスが1323年に居城をトラカイ(3)からこの地に移す以前から集落があり、交易の中心地となっていた。伝説は史実ではないし、文字通りに受け取ることはできないが、そこにはある種の隠喩がある。

     ところで、ここに登場する神官リズデイカにも興味深い伝説がある。ヴィルニュスの北の郊外にヴェルキャイ(4)という地域があるが、昔、この辺りで大公が狩りをしていると、一本の木の上にかけられた鷲の巣から赤子の泣き声が聞こえてきた。それは、この辺りに住む神官の庶出の子であったが、「この子はやがて父親の地位を脅かす者になろう」という神のお告げを聞いた神官は、その子を鷲の巣に投げ入れた(5)。しかし、泣き声を聞いた大公によってこの赤子は助け出され、リズデイカと名付けられ、やがて立派に成人してゲディミナス大公の側近として仕える神官になった。

     リトアニア語のリズデイカ(Lizdeika)という語は、「巣(nest)」を意味する単語リズダス(lizdas)に由来している。なお、リトアニア語では、“-eika”は男子の名の接尾辞のひとつである。また、赤子が泣いていた木のあった場所は、その後、ヴェルキャイ(Verkiai)と呼ばれるようになったが、“Verkiai”はリトアニア語の「泣く(cry)」を意味する動詞“verkti”がもとになっている(6)。そして、リトアニア最古の都跡があるケルナヴェ(7)の5つの丘のひとつに「リズデイカの丘」と呼ばれている丘があるが、神官リズデイカは、晩年ケルナヴェに住んで、祭壇の聖なる火に仕えて亡くなったと言われている。

     リトアニアはヨーロッパで最も遅くキリスト教(カトリック)を受け入れた国である。キリスト教受容以前のリトアニア人は、バルト族の伝統的な多神教的自然崇拝とシャーマニズムに彩られた生活をしていた。こうした多くの伝説もその時代の遺産である。それにしても、このリズデイカの生い立ちに関する話は、どこかで聞いたような気がした。それは多分、子供の頃に聞かされた日本の高僧説話「鷲にさらわれた良弁」が頭の隅に残っていたからではないかと思った。

    〔蛇足〕

    (1)ゲディミナス(Gediminas:在位1316年~1341年)は、リトアニアが欧州の大国となる基礎を築いたが、その一族と大勢の子供や孫たちの活躍によって、ゲディミナス王朝の始祖とされている。ポーランドで、ピアスト朝、アンジュー朝に続く3番目の王朝として、1386年から約200年間続いた「ヤギェウォ朝」は、ゲディミナス大公の孫ヨガイラ(Jogaila)が婿入りして開いた王朝である。

    (2)ヴィルニャ(Vilnia)川は東から流れてきてヴィルニュスのお城の丘の下でネリス川に注ぐ美しい渓流で、今では鮭の遡上も見られるというが、ソ連統治時代には汚染がひどく死の川であった。

    (3)この当時のトラカイは、現在では旧トラカイ(Senieji Trakai)と呼ばれていて、現在のトラカイの東方約3kmにある。現在のトラカイ(Trakai)は、首都ヴィルニュスの西方、直線距離にして20数kmにあり、車で1時間もかからない。そこには、美しい湖に浮かぶ小島に築かれた中世の城郭があり、リトアニアを訪れた観光客が必ず行くリトアニア観光のメッカである。夏の観光シーズンには、この古城の中庭で、オペラやコンサートが催される。しかし、夏の短い観光シーズンも終って、すっかり暇になった観光客用のヨットの船長に促されて、その小さなヨットに乗り込み、静かな湖面を漂いながらトラカイのお城をぼんやり眺めていると、この世の時間が止まったような気持ちになる。

    (4)ヴェルキャイ(Verkiai)は、ヴィルニュスの旧市街の中心から北方に約7km離れたネリス川北岸の地域である。

    (5)この庶子は神官と巫女の禁じられた恋によって生まれたため、大公に見つかるとこの神官は罰せられる。そこで、大公が狩にきたとき、神官はこの赤子を篭に入れ、ロープで高い木の上に吊るして隠したというのが本当の話らしい。しかし、大公に見つかったので、神官は「大公のために祈っていたら神がこの子を授けてくれた」と言い訳をした。大公はこれを聴いて、多分嘘と知りつつ、この庶子を育てることを許したということである。

    (6)これがヴェルキャイという地名の由来を説明する有力な伝説なのだが、この地名の由来を説明する伝説は他にもあって、いずれも、「泣く」(verkti)ことに結びついているが、それらの説明は神官リズデイカの伝説とは無関係である。したがって、神官リズデイカの伝説とヴェルキャイの地名の由来の結びつきは、どこまで信じてよいのか不明だ。

    (7)ケルナヴェ(Kernave)は、首都ヴィルニュスの北西、直線距離にして約35kmにあり、そこには有史前から栄えた集落があったため、考古学的発掘調査の対象となっているが、トライデニス(Traidenis:在位1269年~1282年)がここを本拠地としたことから、リトアニア最古の都跡のある場所として知られている。この辺りはリトアニア人にとって「心のふるさと」、我々にとっての奈良の飛鳥のような存在である。なお、ケルナヴェの遺跡は2004年にユネスコの世界遺産に指定された。

    (2012年8月 記:2013年5月改訂、2013年9月改訂2)

    (編集者注)

    作者の依頼により差し替えた。 2013/9/5 大曲

    コメントはまだありません »
    Leave a comment

    コメント投稿後は、管理者の承認まで少しお待ち下さい。また、コメント内容によっては掲載を行わない場合もあります。