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  • リトアニア史余談6:窓ガラスに刻まれたゲーテの詩/武田充司@クラス1955

     バルト海に面するロシア領の飛び地カリーニングラード州(※1)は、北のリトアニアと南のポーランドに挟まれている。

     その北西部は全長100kmにもおよぶ長大なクルシュー砂嘴(※2)によってバルト海から隔てられ、砂嘴の東側は大きな内海(潟)となっている。砂嘴の先端はリトアニアの港湾都市クライペダの目の前まで達し、そこで内海はバルト海に通じている。昔はこのあたりは全てプロイセン王国の領土であったが、今では、砂嘴の中ほどにロシアとリトアニアの国境がある。

     国境の直ぐ北側には、クルシュー砂嘴の大きな砂丘を背にして防風林に守られた小さな宝石のような町ニダ(Nida)がある。内海に面したこの美しい町は今ではリトアニア屈指のリゾート地であるが、長い間ドイツ人が支配していた地域だけに、夏の観光シーズンにはドイツ人観光客が多い。しかし、昔は、厳しい自然の中に生きる素朴な漁民の住む寒村であった。

     北ドイツのハンザ都市リューベックに生まれたトーマス・マンも、ニダの鄙びた佇まいと静寂に魅せられたのか、1930年にここに別荘をたて、その年の夏から毎夏ここで過ごした。しかし、1933年には、ナチに追われて米国に亡命したため、彼のニダでの夏の生活は1932年の夏までで終ってしまった。しかし、彼の長編4部作「ヨーゼフとその兄弟たち」はこの夏の別荘で起筆されたという。現在でも、トーマス・マンの別荘はリトアニアの人たちによって大切に保存され、毎年、多くの観光客が押し寄せている。

     トーマス・マンがニダに別荘を建てる100年以上も前の1806年10月に、「イエナ=アウエルシュテットの戦い」でナポレオンに敗れたプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、首都ベルリンを明け渡して、家族とともに東プロイセンのケーニヒスベルクに避難した。しかし、翌1807年2月、ケーニヒスベルクの南々東40kmほどのアイラウ(※3)で、ロシアとプロイセンの連合軍が、ナポレオン軍と2日間にわたる死闘をくりひろげたが、結局、連合軍の主力であったロシア軍は撤退して行った。辛うじて勝利を手にしたナポレオン軍を前にして、もはやケーニヒスベルクにも居られなくなったプロイセン王一家は、プロイセン領北端の都市メメル(※4)に避難することになった。

     ケーニヒスベルクをあとにしたプロイセン王一家は、バルト海から吹きつける寒風の中を、クルシュー砂嘴を北上してニダまで辿り着いた。当時のニダは貧しい漁村であったが、辛うじて一軒の宿屋を見つけ、一夜を過すことができた。このとき、そのあまりに惨めな境遇を嘆いた王妃ルイーゼは、その気持を託すかのように、以下のゲーテの詩を宿屋の窓ガラスに、自分のダイヤの指輪で刻んだといわれている(※5)

     Wer nie sein Brot mit Tr$00E4nen ass

    $00A0 Wer nie die kummervollen N$00E4chte

    $00A0 Auf seinem Bette weinend fass

    $00A0 Der kennt euch nicht, ihr

    $00A0 Himmlischen M$00E4chte

     メメル(クライペダ)に辿りついたプロイセン国王一家と政府高官は、そこに臨時政府を樹立し、1808年まで約2年間メメルにとどまった。現在でもクライペダ市のダネス街(Danes g.)17番地には王宮として使われた建物が残っているが、現在の建物は19世紀末に再建されたものである。プロイセン王国における農奴制廃止を告げた、いわゆる、「10月勅令」は、1807年10月9日に、このクライペダの王宮においてフリードリヒ・ヴィルヘルム3世によって署名されたものである。
    〔蛇足〕
     (※1)ロシア領カリーニングラード州の州都カリーニングラード(Kaliningrad)は、カントやヤコビーが住んでいた昔のケーニヒスベルグ(K$00F6nigsberg)である。このカリーニングラード州を含めて、この辺りは「東プロイセン(プロシャ)」と呼ばれていたが、この地域の先住民族は西バルト族の一派プロシャ人である。プロシャ人はこの地に入植してきたドイツ騎士団との戦いで絶滅した。
     (※2)クルシュー砂嘴(Kursiu nerija)とは、リトアニア領となっている部分の名であるが、昔、この地方に住んでいたバルト族の部族クルシュア人(Kursiai)に由来する名である。現在、ここはリトアニアの国立公園になっている。
     (※3)アイラウ(Eylau)は現在のロシア領カリーニングラード州のポーランドとの国境近くにある町バグラティオノヴスク(Bagrationovsk)の旧ドイツ名である。
     (※4)メメル(Memel)はドイツ支配時代のクライペダ(Klaipeda)の名である。
     (※5)ゲーテと同時代人だった王妃ルイーゼは、ベルリンのサロンなどに出入りする貴婦人の間で人気のあったゲーテの詩には親しんでいただろう。しかし、この詩が本当にゲーテの詩の一節なのか、僕は確認していないので分からない。ただ、土地の人はそう言い伝えている。
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