リトアニア史余談6:窓ガラスに刻まれたゲーテの詩/武田充司@クラス1955
記>級会消息 (2012年度, class1955, 消息)
その北西部は全長100kmにもおよぶ長大なクルシュー砂嘴(※2)によってバルト海から隔てられ、砂嘴の東側は大きな内海(潟)となっている。砂嘴の先端はリトアニアの港湾都市クライペダの目の前まで達し、そこで内海はバルト海に通じている。昔はこのあたりは全てプロイセン王国の領土であったが、今では、砂嘴の中ほどにロシアとリトアニアの国境がある。
国境の直ぐ北側には、クルシュー砂嘴の大きな砂丘を背にして防風林に守られた小さな宝石のような町ニダ(Nida)がある。内海に面したこの美しい町は今ではリトアニア屈指のリゾート地であるが、長い間ドイツ人が支配していた地域だけに、夏の観光シーズンにはドイツ人観光客が多い。しかし、昔は、厳しい自然の中に生きる素朴な漁民の住む寒村であった。
トーマス・マンがニダに別荘を建てる100年以上も前の1806年10月に、「イエナ=アウエルシュテットの戦い」でナポレオンに敗れたプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、首都ベルリンを明け渡して、家族とともに東プロイセンのケーニヒスベルクに避難した。しかし、翌1807年2月、ケーニヒスベルクの南々東40kmほどのアイラウ(※3)で、ロシアとプロイセンの連合軍が、ナポレオン軍と2日間にわたる死闘をくりひろげたが、結局、連合軍の主力であったロシア軍は撤退して行った。辛うじて勝利を手にしたナポレオン軍を前にして、もはやケーニヒスベルクにも居られなくなったプロイセン王一家は、プロイセン領北端の都市メメル(※4)に避難することになった。
ケーニヒスベルクをあとにしたプロイセン王一家は、バルト海から吹きつける寒風の中を、クルシュー砂嘴を北上してニダまで辿り着いた。当時のニダは貧しい漁村であったが、辛うじて一軒の宿屋を見つけ、一夜を過すことができた。このとき、そのあまりに惨めな境遇を嘆いた王妃ルイーゼは、その気持を託すかのように、以下のゲーテの詩を宿屋の窓ガラスに、自分のダイヤの指輪で刻んだといわれている(※5)。
Wer nie sein Brot mit Tr$00E4nen ass
$00A0 Wer nie die kummervollen N$00E4chte
$00A0 Auf seinem Bette weinend fass
$00A0 Der kennt euch nicht, ihr
$00A0 Himmlischen M$00E4chte
2012年7月26日 記>級会消息