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  • リトアニア史余談1:ナポレオンの丘/武田充司@クラス1955

     今年はナポレオンがモスクワ遠征を企ててから丁度200年の節目の年である。

    $00A0 1812年5月9日、ナポレオンはパリを発ってドレスデンに向かった。5月16日、ドレスデンに入ったナポレオンは、そこで、オーストリア皇帝フランツ2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と落ち合い、三者会談が開かれた。それがどんな結果になったかは、その後、ナポレオンのロシア遠征に参加した軍団の3分の1が、ライン連邦軍とプロイセン軍、および、オーストリア軍で構成されていたことを見れば明らかである。会談を終えたナポレオンは、5月29日、ドレスデンをあとにして、リトアニアのカウナス(1)を目指した。

     ナポレオンの軍団は、昔のドイツ騎士団の牙城マリエンブルク(Marienburg:現在のマルボルク〔Malbork〕)からケーニヒスベルク(K$00F6nigsberg:現在のカリーニングラード〔Kariningrad〕)を経て、6月の半ば過ぎには、リトアニア南部の町マリヤンポレ(2)の西側の森を抜けてカウナスに近づいていた。リトアニア南部を流れる大河ニェムナス(Nemunas)がカウナスの南東郊外で大きく南に蛇行している地点に、イェシア(Jiesia)川という小さな川が南方から注いでいるが、先遣隊は既にその小川の上流4kmほどの地点に野営地を準備していた。そこはカウナスから少しばかり離れていて、両側から丘が迫っている低地だったので、敵に発見されにくい場所だった。6月23日早朝、まだ暗いうちにナポレオンはこの野営地に到着した。

     到着して間もなく、ナポレオンは、敵を欺くためにポーランド兵の外套をはおり、少数の側近と工兵隊の指揮官を伴って、ニェムナス川の渡河地点を探しに出かけた。このとき、ナポレオンは川岸に小さな丘をみつけ、そこに登って対岸の様子を窺った。その丘はイェシア川がニェムナス川に合流する地点の直ぐ北側にあり、現在では、「ナポレオンの丘」、リトアニア語で“ナポレオノ・カルナス”(Napoleono Kalnas)、と呼ばれ、リトアニアの地図に載っているが、標高64mにも満たない小さな丘である。僕は、ナポレオンに遅れること約190年、この丘に登ってニェムナス川の対岸を眺めたが、丘の上の樹木が大きくなり過ぎて、少々視界の妨げになっていた。

     この日の夕方遅くまで動き回っていたナポレオンが、麦畑を馬に乗って疾駆しているとき、突然、一匹の兎が目の前を横切った。馬はその兎を避けようとして一瞬よろめいた。騎乗の姿勢がよくなかったのか、ナポレオンはここでバランスを崩して落馬してしまった。大した怪我もなく、直ぐに立ち上がったナポレオンは、何事もなかったかのように無言のまま再び馬上の人となったが、その場に居合わせたナポレオンの側近たちは、ローマ人の故事を想い出して、不吉なものを感じた。そして、ニェムナス川は渡らぬほうがよいと囁く者もいた。しかし、このとき、ナポレオンは、自分の不機嫌をとり繕うように冗談を言ったりして、意に介さぬふりをしていたという。

    $00A0 その夜(6月23日夜)、ニェムナス川渡河の決断が下された。24日早朝から翌25日にかけて、工兵隊によって作られた3本の浮橋を使ってニェムナス川を渡ったナポレオンの大軍団は、もぬけの殻となったカウナスに入城した。カウナスに駐屯していたロシア軍は3日前に撤退して行ったのだ。

     ロシア皇帝アレクサンドル1世は、このときヴィルニュス(Vilnius:現在のリトアニアの首都)に滞在していた。ナポレオンがカウナスを占領したという情報は、早速、皇帝のもとにもたらされたが、そのとき、皇帝は現在のヴィンギス公園(Vingio Parkas)の広場で宴を開いていた。それから間もなく、ロシア軍は、ネリス川(3)に架かる「緑の橋」(4)を破壊して、ヴィルニュスから撤退して行った。ナポレオンは、またしても、皇帝もロシア軍もいない町に入城したのであった。

    こうして、皇帝との対決を望むナポレオンは、悪魔に魅せられたように、奥地へ、奥地へと引き込まれて行った。

    〔蛇足〕

    (1)カウナス(Kaunas)は、ネリス川がニェムナス川に合流する地点のニェムナス川北岸に古くから栄えた町で、ヴィルニュスの西方約100kmに位置する。1795年の第3次ポーランド分割によって、ニェムナス川右岸(北岸)までロシア領となったため、このとき、カウナスもヴィルニュスもロシア帝国の支配下にあったが、ナポレオン軍が野営したニェムナス川左岸(南岸)はプロイセン王国領となっていた。なお、ニェムナス(Nemunas)川はポーランド語ではニーメン(Niemen)川で、ドイツ語ではメーメル(Memel)川となる。ドイツ国歌のナチス・ドイツ時代の歌詞には、”・・・von der Maas bis an die Memel”(・・・マース川からメーメル河畔まで)、とうたわれている。

    (2)マリアンポレ(Marijampole)は、カウナスの南西約55kmに位置するリトアニア南部、スヴァルキヤ地方の中心都市で、リトアニアとポーランドを結ぶ路線上にある。

    (3)ネリス川(Neris)は、リトアニアの首都ヴィルニュスを流れる川で、ヴィルニュスの美しい景観の重要な一部を形成している。

    (4)緑の橋($017Daliasis tiltas)はネリス川に架かるヴィルニュスの橋としては最古のもので、当時は、屋根つきの木造橋で、橋の上には店が並んでいた。1739年に緑色に塗られたため、そのとき以来「緑の橋」と呼ばれるようになった。19世紀末に鉄の橋になったが、その橋は第2次大戦で破壊された。現在の橋は1952年に建設されたものである。

    (2012年4月記)

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