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  • 近頃思うこと(その27)/沢辺栄一@クラス1955

     幕末から明治維新を経て日露戦争までの明治時代は非常に多くの素晴らしい人物が輩出した。明治維新という大改革は日露戦争の戦勝時点で世界から一目置かれる国になり、一応完成されたものと考えられる。この時代のリーダーは殆どが藩校の教育を受けた人間であり、その教養も徳川時代に培われたものであった。徳川時代の教育は各藩校や私塾で中国の儒教をベースとした四書五経等の古典の幼少時からの素読を通して、徹底的に人間の在りようを体で取り入れたのではないかと思う。

     明治政府は西欧の教育システムを近代学校教育制度として採用し、それまでの日本の教育の良さである古典的要素を古いものとして捨て去り、近代的なもののみに捉われてしまった。その結果、教育現場は西欧に倣えとばかり西洋化し、日本のそれまでの伝統文化が無視され、エリート校では英語さえ教えればよいという状況になり、さながら植民地状況になってしまった。明治天皇はこの状態に危機感を持たれ、「教学聖旨」を出され、さらに数年後、総理大臣と文部大臣に教育上の基礎となるべき箴言を編纂せよと命じた。この結果、教育勅語が井上毅と元田永孚によって起草され、天皇から下賜された。これがその後の日本人の行動の規範となったが、古典の教える人間力の育成までには至らなかった。
     明治以降の学校教育は一定量の知識の詰め込みであり、学校の試験や高等文官試験でも記憶の試験であり、考える力や人格を評価することはしなかったし、人物を育てることができなかった。また、高等文官試験、陸軍士官学校、陸軍大学、海軍兵学校、海軍大学の試験の成績の順位によってその後の官庁や軍の職位が決まり、業務の実績による評価は殆ど行われなかった。このことがリーダーの驕りと思考の硬直化を促進したように思われる。
     日露戦争後のリーダーは明治時代とそれ以後の学校教育を受けた人間であるが、日本が直面した問題をうまく乗り越えることに失敗し、敗戦を迎えた。戦後の教育は米国主導の新たな制度で今日まで来ているが、より一層、国のリーダーの育成ができず迷走を続けている。西欧から取り入れた学校教育制度は一般人の知識レベルを平均的に引き上げるシステムとしては素晴らしいシステムではあるが、リーダーや大人物の育成には適していないのではないかと思う。
     乃木大将は旅順開城の時にロシアの将軍ステッセルに対し、礼譲と友誼とを示したが、太平洋戦争でのシンガポール陥落の際の山下大将は白旗を掲げてきたパーシバル将軍に対し、高圧的に対応し、日本の新聞メディアもそれを称賛した。明治に比べ昭和の人間性は著しく落ちていた。
     太平洋戦争の開戦直後、アメリカで公刊されたヒュー・バイアス氏の「敵国日本」の末尾に日本軍部の戦術動向を見通して「日本の軍人は最初の奇襲に最大の重要性を置く。その計画は精密を極め、絶対の秘密が保たれる。(中略)大体日本人は計画を上手に作るが、臨機応変の才が無い。法則に従って行動を規律する癖は根深いものである。突発的な場面に直面すると彼らの頭は速やかに動かない。・・・」と言っている。(余談ではあるが、東日本大震災が起きた時の政府の対応は全くこの通りであった)太平洋戦争の経緯、結果を見ても、軍人の創意と変化への対応措置は明治時代に比べ著しく欠いていた。
     日露戦争に貢献した秋山真之と佐藤鉄太郎両参謀の海軍兵学が海戦要務令となったが、第一次大戦で既に異なった型の戦いとなっていたにも拘わらず、太平洋戦争までも金科玉条としてこれを守っていた。この要務令の神格化により兵術思想の硬直化を招き現実への対応への作業を怠った。この様な思考の硬直化を今では昔の話と思われるが、福島原子力発電所の放射能対策として80年前のデータを基とした基準をいまだに厳守していることは硬直化そのものと思われる。
     ある意味では明治時代以降、今日までの学校教育は根本のところで誤っていた部分があると言えるのではないだろうか。これまで徳川時代の教育とそれによって育った人材の研究を専門的に行った教育学者はいるのだろうか。明治時代を指導したような素晴らしい人材、人物が育つ教育に変えるにはどうしたら良いのかと考えるこの頃である。
         沢辺栄一(2012.2.23)
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