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  • オリンピックの辰年―その3/寺山進@クラス1955

     今回はソウル・オリンピック、1988年の戊辰である。不振の日本勢はお家芸の柔道が僅か金1ケで、結局計4ケの金メダルしか取れなかった。その上審判の判定を巡るトラブルが続出し、好印象が残るオリンピックとは云い難いままに終わってしまった。

     この十二年間に日本経済は高度成長を成し遂げた。「Japan as No.1」と持て囃されたのも束の間、この頃には既にバブルに突入、もはや破裂寸前の状態だった。
     1959年に気おくれして入るのを止めたTiffanyのN.Y.本店を、漸く閑が出来て見学したのは1976年秋である。そして12年後の1988年の秋、二度目のそして最後の訪問をした。当時は確か一階が比較的リーズブナルな価格帯の売り場で、上の階に行くほど高級品だったと思う。その一階は日本のお嬢さん方やおばさん方で溢れかえっていた。WASP系の上品な若い美人がはじき出されて、隅の方にしょんぼり立っている。一寸話しかけてみると「直ぐに居なくなるわ」と笑っていた。事実あっという間に潮の引くごとく店内は静寂に戻った。団体のNY買物ツアー全盛期の頃である。なにしろRockefeller Center 迄日本企業が買ってしまう時代だった。

     小生個人はこの数年前から、NTTのグループ会社に出向していた。1985年電電公社が民営移行に伴って出資の自由を認められたのに乗じて、合弁会社を立ち上げたのである。民間会社との合弁第一号であったので一寸注目され、「葵会」という電電の記者クラブの会見に引っ張り出された。
     「我々はコンピュータ・ユーザとしての経験が豊富だから、電電の技術と組んで新市場を開拓する」と適当に上司に挨拶して貰ったが、質疑応答となると小生が矢面に立たされた。
     「そんなに良いソフトをお持ちならば、何故又選りに選ってDIPSなんかと組むのか?」と中々意地が悪い。「DIPSは優秀なマシ-ンである」と突っぱねるしか答えようがなくなった。流石の記者さんも、一応公式の会見場なので、あからさまに電電の悪口を云う事が出来ない。「こいつ何処まで本気なのか」といった微妙な表情で「競争相手は?勝つ自信は?」と追及して来る。「競争相手はIBM。勝つ自信は勿論ある」と答えた時は、我ながら余りの厚かましさに冷や汗が流れた。

     新会社発足の初日、小生が連れて行った部下が目を丸くして報告に来た。「DIPSはカードでないとプログラム出来ません」という。「今時まさかそんなシステムが・・」と正直なところ一寸驚いた。しかし同時にその反面、安心もした。当方のソフトも余り威張れたものでは無い。それならお互い様だ。
     DIPSは技術的にはかなり高性能のシステムだったと思う。小生が良く知らなかっただけなのだが、研究開発段階の製品ではなく、本格的な実用機だった。当時既に全銀・郵貯・年金といった公共の基幹システムでフル稼働していたのである。とは云っても、使う人の事など全く考慮されていない、恰も電電時代のNTTを象徴するかのごとき代物ではあった。

     社会保険庁の年金システムを見学させて貰い、その巨大さというか複雑さに不安になった。全国民一人一人毎に異なるデ-タ・ベ-スと、制度上異なる適用ロジックを抱え、毎日生じる膨大な入力を管理する必要がある。大丈夫だろうか。之は大変な事になるのではないか。
     別に小生に先見の明があった訳ではない。一寸話を聞けば誰にでも分かる事である。小さな会社の給与システムでも、実際運用するとなると中々大変なのだ。各人が毎月貰うお金に影響する事なので「慎重の上にも慎重に!」が鉄則である。

     年金システムの問題が「消えた年金」として現実化し政権交代にまで発展するのに、この後実に20年もかかった。もちろんN.T.T.の責任では無く役人や政治家の問題なのであるが、早く手を打てばずっと少ない被害で済むのに、問題の先送り、見て見ぬふりが致命的になる。国や金融機関、企業の不良債権処理など、やっている事は皆同じである。民族的宿命と云うべきか。
     
     電電の組織やその運用を見て、何となく旧帝国海軍を連想した。時代は航空機主力の近代戦に移っているのに、相変わらず「砲術屋」幹部の大艦巨砲主義が主流であり続けた。帝国海軍が空母中心の本格的な輪形陣で戦ったのは、サイパン陥落時のマリアナ沖海戦が初めてである。米国海軍はこれより二年早いミッドウエイで、早くもこの陣形を敷いて奇跡的勝利を収めた。一部の戦史研究家が持て囃す山本五十六連合艦隊司令長官は、この時主戦場の遥か300マイル後方で「大和」に座乗していた。「露払い」の「機動部隊」による一撃のあと、「大和」の46サンチ主砲で米艦隊に止めを刺す積りだったのである。個人的にはこの気持ちは良く分かるのであるが・・・
     電電も「交換屋」や「伝送屋」が主流になっている。「デ-タ屋」とか「無線屋」が次の時代に備えているのだろうかという疑問であった。固定電話の「開設待ちの解消」と「全国即時自動接続」という悲願を見事に達成した後の電電最盛期なので無理も無いが、日本海海戦の勝利経験から抜け出せていない様に思えた。

     次回は2000年、庚辰のシドニー・オリンピックである。引き続き投稿して行く予定である。
      (平成24年2月15日)

    3 Comments »
    1. 寺山様 いつも楽しく読ましていただいております。ソウルオリンピックについては、思い出があります。カナダからアメリカに出張するため、成田へ向う車中で、ソウルオリンピックの実況を聞き、確か鈴木大地選手が背泳で金メタルを取ったのを聴いた覚えがあります。アンカレッジ経由でカルガリーに着き、迎えの車で走っていると、その年の2月に開かれたカルガリー冬季オリンピック会場の脇を通りました。ジャンプ台等が見えました。「オリンピックに関係のある出張だな」と思った思い出があります。着いた会議の場所はエメラルド・レークでした。ここは、大橋さんが、カナデイアンロッキーの旅行記で絵ものせておるのを見て大変懐かしく思いました。コッテイジ風の建物が周りの景観を損なわないように点々と置かれておりました。その一つに入りますと、中は白一色の清潔感溢れる近代的な部屋でしたが、驚いたことにテレビ、オーデイオ類等音の出るものは一切ありませんでした。電話だけは部屋の片隅にひっそり置かれていました。これが真のリゾートなんだなと強い印象を受けたのを覚えております。したがってオリンピックの情報は全く分からず、会議が終わって、ロスへ行くべくカルガリー空港に着いてはじめてカナダのベン・ジョンソンがドーピングで失格しカール・ルイスが繰り上げ1等になったことを知りました。懐かしい思い出です。

      コメント by 新田義雄 — 2012年2月16日 @ 17:39

    2. 寺山兄の「辰年のオリンピック」を読むと、当時の時代背景を改めて思い出します。ソウルオリンピックでは、全世界の国と地域が参加して、ミュンヘンオリンピック以来16年振りでありました。またアジアでの開催は日本についで2度目になります。日本選手は不振でしたが、テレビで放映された映像は韓国の成長の様子を世界に知らしめたと思います。一方、前年11月29日に起きた大韓航空機爆破事件は、世界情勢の不安定化の前兆とも言えるでしょう。
      1988年は小生にとって大ピンチの年でした。クラスブログ「自惚れてはいけない」に書いたように、日本高速通信で1月に一過性虚血性脳発作を起こして救急車でJR東京病院に運ばれ、生死をさまよいました。寺山兄のブログを読んで、同じ頃、通信自由化の洗礼を受けた級友がいたことを知りました。小生は伝送屋で、上司はNTT出身の交換屋のK専務でした。NTT出身ですが、K専務はテキパキと決断が早く、山積する難事業を技術者が一致団結して推進し、先ずは東京ー大阪間の光回線の開通に漕ぎ着けました。何故、NTT出身者が上司かと不思議に思うでしょう。それは、市外ネットワークではNTTと競争していましたが、市内ネットワークではNTTから借用して相互接続していたからです。従って、小生の部下には、電気、電線メーカー出身者とともにNTT出身者もいました。小生としては、昔の最大顧客と競争し、ライバル会社と協調するという稀有な体験を6年半することになりました。当時のNTTのS社長は、講演会では「協調と競争」と話しておられましたが、その後の懇親会になると「実戦では競争と協調だよな。」とざっくばらんに本音を漏らしておられました。

      コメント by 大橋康隆 — 2012年2月17日 @ 10:43

    3. 新田兄と大橋兄から、例によって原文の内容を大きく深く広げて下さる素晴らしいコメントを頂き、誠に有難う御座いました。
      ソウル・オリンピックでは「鈴木大地選手の100メ-トル背泳ぎ」を書き忘れていました。「或いは」とは思っていましたが、これは「大金星」と云えるでしょう。
      電電公社の民営移行の頃は「ニュ-・メディア」とか「ニュ-・ハ-ド」とかの言葉が、イメ-ジ先行で具体性のないまま飛び交っていた時代でした。第二電電、テレコム、テレウエイの所謂N.C.C.三社はエリ-ト(大橋兄もその一人です)を集め、新しい産業・新しい時代の先駆者として脚光を浴びていました。
      以後の社会の変化を的確に予想出来た人は殆ど居なかったでしょう。小生自身は「電話」即ち個人間の会話はPersonalなものだから、身につけるように成るとは思っていました。しかし「携帯のメ-ル」の普及は予想外でした。最初に日本語の入力方法を聞いた時は、「こんな面倒くさいものが使はれる筈がない」と断言しました。今でも面倒で使えないまま、孫に嗤われている始末です。

      コメント by 寺山進 — 2012年2月20日 @ 13:38

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