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  • 近頃思うこと(その17)/沢辺栄一@クラス1955

     10年位前に文芸春秋誌の読書に関する特集で学習院大学篠澤秀夫名誉教授の「日本を知る本」として10数冊紹介されていた本の中にあった文庫本、清水馨八郎著「日本文明の真価」を読んで、それまで多少は抱いていた欧米人にたいする尊敬の気持ちがかなり変り、欧米人は本来的には野蛮であり、日本人の方がより、人間的、文明的であると思うようになった。


     最近になって、日本の大学を終了した韓国出身の拓殖大学国際学部教授の呉善花(オ・ソンファ)著「日本の曖昧力」(PHP新書)でさらに目が開かれた。日本文化の基礎は農耕文化の前「前農耕時代(縄文時代)」に民族の特性が創られた。日本の地形が小型で、ある地域内に山、海、平地が混在することが日本の集団性を作り、湿度が多くもや、霧が「わび」「さび」の日本人の美意識を生み、狭い土地が同じ農耕文化である大陸のように強力な専制君主を必要とせず、村民各自で灌漑その他の農耕に必要な工事ができ、またこれが創造、工夫を培い、今日の日本の素晴らしい技術力につながっていると説明している。
     メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明および黄河文明のいわゆる世界の四大文明は現在全て砂漠になっている。しかし、日本は現在でも青々とした緑で覆われている。平安時代に書かれた実語教の最初に「山高きが故に貴からず、木有るを以て貴しとする」と記されている。素晴らしい縄文古代時代からの日本人の経験から得た知恵が砂漠化を防いできたと思われる。日本人の英知とその継承は誇れるものであると思う。
     話は変るが、山内東大教授は幕末、明治時代には多能な人間が多くいたと指摘されたが、現在でも同じ日本人としてそのDNAを受け継いで立派な人が多くいると思う。昭和時代の戦争に関してはタブー視されているので日露戦争のようには立派な軍人が公式には全く紹介されていないが、人間として素晴らしい軍人が多くおり、その2~3をここに紹介する。
    ●昭和13年3月ナチのユダヤ人弾圧を逃れ、2万人のユダヤ人がドイツからポーランドを経て満州国を経由して上海へ脱出しようとした時、満州国は日独伊防共協定の影響で彼らに対して門戸を閉ざした。ハルピン特務機関長の樋口季一郎少将は人間としてこれを見過ごすことができないとして、独断専行で行動を開始した。特務機関の任務に「満州国の内面指導」という項目があり、この職務権限を駆使して満州国外交部の責任者を指導、説得した。満州国政府はその意見に従い彼ら全員を満州国に受け入れた。樋口は満鉄本社に電話を入れ、救済特別列車の手配を依頼し、松岡洋右満鉄総裁はこれを快諾した。ドイツ政府よりクレームが入り、東条英機関東軍参謀長は樋口を高圧的に詰問したが、樋口は一歩も引かず、人の道に背くことはできないと正論を述べ、ヒットラーのお先棒を担いで弱い者いじめを正しいと思うかと反論し、東条を同意させ、2万人を救った。
    ●昭和17年3月英国巡洋艦「エクゼクタ」と「エンカウンター」はジャワ海脱出を試みたが、日本海軍に撃沈された。両艦艦長を含む約450名は漂流した。彼らが生存と忍耐の限界に達していた丁度その時、日本海軍駆逐艦「雷」が彼らを発見した。この海域は敵潜水艦の跳梁するところであり、艦を停止することは自殺行為に等しかった。しかし、艦長工藤俊作少佐は救助を決断した。海中の英国将兵が限界であることに気付き、警戒要員をも救助活動に投入した。救助の縄梯子を自力で登れない者がおり、日本の下士官数名は海に飛び込み英将兵をロープに縛り、艦上に引き上げた。力尽き沈んだ者を除き殆ど全ての英将兵を救助した。その上、汚物と重油にまみれた英海軍将兵を嫌悪せず、服を脱がせ、身体を洗浄し、艦載の食料と被服全てを提供し労った。工藤少佐は一段落した後、英海軍士官全員を集め「貴官らは良く戦った。貴官は本日、日本海軍のゲストである」と英語で訓辞し、食料を供給して歓待したのである。
    ●昭和19年秋、浙江省の第70師団、独立歩兵第124大隊本部に大隊長田辺新之中佐が赴任してきた。赴任最初の訓示で「・・・所見を述べると、諸子らの抱く必勝の信念に水を差すわけではないが、戦争は間違いなく負ける。従って、今後におけるわが大隊の方針は戦争に負けた場合にどうなるかを目標として研究を行う。皆よく大隊長の意をたいして協力して頂きたい」。なぜ日本が負けるかについての軍事、政治、経済各方面における博学な知識と見通しで明確な結論を提示し、完全に部下を掌握した。「負けた時どうするか、方法は一つしかない。駐屯地の住民の協力を得ることである」「それにはとりあえず遮断壕を埋めることからはじめよう」。遮断壕は鉄道防護のために沿線に掘りぬかれていたが、司令部を説得し、埋め尽くした。これにより住民は自由に相互の交流をはじめ、どの町も平和気分に湧いた。匪賊の襲撃が危惧されたが結果はその逆になった。周辺の民衆の人気が田辺大隊長に大きく集まっていたため、その地方の匪賊は田辺大隊長に貴隊と友好関係を保ちたいと申し出てきた。また、匪賊の長は大隊長と義兄弟の関係を結び、鉄道の警備を行い、また、日本から軍事教育を受けた。民衆との関係も非常に良好に保たれ、浙江地区では一発の弾丸も撃たず一命の負傷者も出さなかった。
    ●昭和20年8月ソ連軍の満州侵攻は8月15日の日本降伏以後も止まらなかった。駐蒙軍司令官であった根本博中将は降伏以後も、熟知していたソ連軍の無謀な攻撃を予想して日本本土からの武装解除の命令を断固として拒否し、ソ連軍に備えていた。日本降伏後、幾度と無く停戦交渉を行ったがソ連軍が攻撃を止めなかったので、部下将兵は必死にソ連軍の攻撃および中共八路軍からの攻撃を食い止め、日本の居留民4万人を乗せた列車と線路を守り抜き、内蒙古を脱出した日本人を救出した。その後も引揚船に乗るまで食料や衣服の提供に尽力した。復員後、昭和24年に中国の蒋介石から秘密裏に援助を求められ、敗戦時、蒋介石から受けた恩義に報いるため、元の数人の部下と台湾に渡り、中国名に変え、中国本土に近い金門島の古寧頭で8千乃至1万の国府軍を指揮して、上陸してきた2乃至3万の開放人民軍を破り、同島を死守した。台湾側が人民解放軍の攻撃を凌いだことで現在の台湾の分離が確定した。2009年この古寧頭戦役戦没者慰霊祭に根本中将の子息が出席を許され、馬英九総統と会見している。
    ●第13方面司令官・東海軍司令官岡田資中将は昭和20年5月以降、名古屋地区を爆撃後、パラシュート降下した爆撃機B29の乗務員27名の処刑に対して横浜軍事法廷で部下19名と共に審理を受けた。米空軍の司令官が軍事工場目標攻撃を主とするハンセルからドイツ諸都市の無差別爆撃を指揮したルメイに変わると状況は一変した。名古屋では20年3月12日から無差別爆撃が行われた。無差別爆撃を行ったB29の搭乗員は俘虜ではなく犯罪者である。岡田中将は軍司令官として全責任を一身に受けることを最後まで崩さず、アメリカ軍の無差別爆撃は国際法違反であると主張し続け、昭和24年9月死刑を執行された。部下から一人の死刑者も出させなかった。この史実は大岡昇平の「ながい旅」となり、故藤田まことが主演するその映画化「明日への遺言」で紹介された。
     ノンフィクション作家関川夏央は「軍人は上級になるほど政治的になり、ずるくなるが、軍司令官クラスには立派な人物がいる」と言っている。
     芥川龍之介の「侏儒の言葉」の中の「天才」に「天才とはわずかにわれわれと一歩を隔てたもののことである。同時代は常にこの一歩の千里であることを理解しない。・・・」 この文中の「天才」を「立派な人物」に置き換えても通ずると思う。「同時代の人間は立派な人物に中々気付かない」と勝手に解釈しているが、今日、日本人のDNAを引継いで各分野で活躍し、立派な人が多いが、政治の世界には殆どいない。政治の世界に立派な人物が気軽に入れ、一般の人がその人物を容易に気付くことができる政治システムはないものかと考えるこの頃である。

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