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  • 久し振りの訪米記(その1)/大橋康隆@クラス1955

     1999年に訪米してから11年も過ぎてしまった。昨年訪米の予定であったが、インフルエンザの流行でキャンセルしたのだ。


     6月3日午後3時、Denver空港に到着して驚いた。93才の山口茂子おばさんが車椅子に乗って、次女Judy、次男Karl、曾孫2人と迎えに来ていた。Judyの運転で、Denverの高層ビルを右側に、雪を抱いて白く輝くロッキー山脈を左側に眺めながらハイウエイをひた走りPlattevilleに到着した。茂子おばさんは次男Karlと同居しているが、今回私達は同じ敷地内のJudyの家に、彼女の孫2人と泊まることになった。夕食後、日本から持参した古い写真をもとに昔話が始まったが、初日なので、詳細な話は明後日にすることにした。
     私の祖父の弟である大叔父、大橋茂治は1905年18才で渡米し、4人の娘を持った。現在は、長女の山口茂子おばさんと四女の横大路メイおばさんだけが健在である。私の母は、茂治叔父さんとは漢字交じりの日本語で、従妹達とは、ひらかなで文通していた。

     6月4日朝食後、9時にJudyの運転で山口家と横大路家のお墓参りをして、Denver郊外の日本料理店で両家の親戚が集まり昼食会をした。(写真1
     去る5月にメイおばさんは88才になり、誕生パーティーを開催する旨、通知が次男Thomasから届いた。急遽米寿のお祝いの黄色のチャンチャンコと頭巾を日本から送っておいたが、それを着て大満悦の分厚いアルバムを、昼食会にまで持参し我々に見せてくれた。
    1写真1 Denver12%.jpg 1写真2 Brighton12%.jpg 1写真3 横大路夫妻15%.jpg

    写真1

    写真2

    写真3

     午後はBrightonのメイおばさんの家を訪れ歓談した。(写真2)右前が茂子おばさん、左前が、メイおばさんである。以前訪問した時には、横大路のおじさんも元気であった。日本刀を収集したり、琵琶を演奏するのが趣味であった。(写真3)なお、夫婦間の会話は日本語だったそうで、メイおばさんは我々とも嬉しそうに日本語で話した。

     長男は大学生の時、友人達と貯水池で水泳中に溺死した。この不幸な事件は当地では広く知られていて、私が光通信の国際学会で知り合ったColorado大学の教授のお宅に招かれた時にも話題になった。

     午後3時頃、Brightonを出発し、Judyの養女Wendy一家が住むColorado Springに向かった。夕方勤務先から帰宅した主人が庭先のバーベキュー装置で腕を振るい、夕食会をしてくれた。(写真4 1写真4 Colorado Spring11%.jpg

    写真4

     前回会った時は新婚早々であったが、今では2人の子供がいる。Wendyは教会の仕事をしながら夜間のクラスにも通っているそうだ。JudyはNorthern Colorado 大学で博士(Education)を取得し、いくつかの
    Elementary Schoolで教師を務め、校長にもなった。Wendyが10才の時に養女に迎え、今年は25周年になる。
     茂子おばさんは、少し足が弱って普段は手押し車を押しており、補聴器を使っているが、至って元気であり、この日も長距離ドライブを我々と共にして、Plattevilleに帰宅したのは、午後10時であった。
     茂子おばさんは、学生時代は父親の茂治おじさんとOregon州で育ち、卒業50周年には同窓会に出席している。1938年に20才でCalifornia州Los Angelesの山口家に嫁入りし、農業に従事した。1941年に日米が開戦すると、Poston Arizona Camp 1(Colorado River近くの砂漠のIndian Reservation)に抑留された。長男Richardが3才、長女Joanneが生後9ケ月で、ミルクが不足し、親切な日本人に粉ミルクを分けてもらったこともあるという。幸い、2年間抑留された後、最初に抑留者を受け入れてくれた州の一つがColorado州で、現在のPlattevilleでゼロから再出発した。
     農家は最大のgamblerと言われていた。雹、結氷、暴風、洪水があった。それでも山口のおじさんは「来年は良い年になるかも知れない」と言って、茂子おばさんと頑張り、4人の子供を育て上げた。山口一家は1984年に農業を止め、広大な農地を貸していたが、現在は処分している。

     以後、山口のおじさんはボランティアとして地域の発展に尽力したが、1992年に亡くなった。茂子おばさんも地域活動に熱心で、これまでに数々の表彰を受けているが、今年5月には ”Hall of Fame” に選ばれた。(写真5 1写真5 新聞記事25%.jpg

    写真5

     次男Karlは、Metro State Collegeを卒業して、海軍に17年勤務したので料理の腕前はよい。退役後は郵便局に勤務していた。
     私の母は、1984年に私の妹の長女と、1985年に次女と訪米し、4人の従妹達と再会した。母は「孫娘を連れて行った」と言い、孫娘は「おばあさんを連れて行った」と言っていた。母と茂子おばさんは、大の仲良しであり、再会は晩年のハイライトであった。

    5 Comments »
    1. Plattevilleという地名を見て吃驚しました。僕は、1970年代初めに、米国のGeneral Atomics社に3年半近く出向していたのですが、その間の2年余りは、同社が開発・設計・建設していた高温ガス炉Fort St Vrain原子力発電所の現場で働いていましたが、この原子力発電所がPlattevilleにあったのです。あの当時、僕は、BoulderにあったGA社の借り上げ社宅に住み、毎日、車でLongmontを通って発電所に通勤していました。発電所から一番近い町がPlattevilleで、昼休みにPlattevilleの郵便局に行って、日本への手紙を出したり、時には、簡単な昼食を米国人の仲間と食べに行くこともありました。あそこで仕事をしていた当時は、めったに日本人に会うことなどなく、何ヶ月も日本語を一言も喋らずに暮らしたこともありました。Denverのサクラ・スクエアーには時々日本の食材を買いに行きましたが、Denver TOUFU Companyがつくっていた地元の豆腐や納豆があって助かりました。あそこは、日本人移住者のコミュニティがあるからでしょう。BrightonもColorado Springも懐かしい名前ですが、あの辺一帯は、どこでも歩き回っているので、40年近く経った今も、当時の光景が思い出されます。それにしても、世の中は狭いものですね。大橋君の親戚がFort St Vrain発電所の直ぐ近くにいらっしゃったとは。
       蛇足ですが、僕の大好きなコロラドを知るよい本を紹介したいと思います。それは、James Michenerの「Centennial」という当時ベストセラーになった小説です。邦訳があるかどうか知りませんが、ペーパーバックで1000ページを越す大作です。

      コメント by 武田充司 — 2010年7月11日 @ 13:06

    2. 武田君のコメントを読んで、僕も吃驚しました。僕が初めてPlattevilleを訪れたのは、1978年7月にDenverのBell電話会社に出張した週末です。その頃は山口のおじさんも元気で、周辺を車で案内してもらいました。「あれが原子力発電所だ。」と指差された方を眺めると、4本位原子炉が聳えていました。定年後1999年に訪れた時は、次男のKarlが「あれが原子力発電所の跡だ。」と教えてくれました。1979年3月に出張した時、Colorado大学の教授宅に招かれたのは,Boulderでした。夜遅く教授が車でPlattevilleまで送って下さいました。僕より先に武田君がPlatevilleを訪れ、Boulderに住んでいたとは、世の中は狭いものですね。武田君の教えてくれた「Centennial」という小説は探してみます。

      コメント by 大橋康隆 — 2010年7月12日 @ 22:45

    3. 蛇足の蛇足ですが、あのFort St Vrain発電所は、40歳代前半の技術屋としての僕の全てを投入した発電所でした。当時の僕は、日本最初の商業用原子力発電所である東海1号発電所(これは、あの発電所と同系の黒鉛減速ガス冷却炉)の原子炉屋として蓄積した知識と経験を、あの発電所に全て注ぎ込んだと思っています。今でも、あれ以前にGA社のSan Diego本社で過した1年余と合わせて3年余りの歳月に、毎週書いた技術メモがA4の社用便箋で数百枚、手元に残っています。しかし、あのプロジェクトは失敗に終わり、大橋君の言っているように閉鎖され、解体されました。僕は、あのあと、1992年に、「連鎖反応成功50周年記念」の米国原子力学会で、招待講演をするためにシカゴに行きましたが、その帰路、発電所の現場で親しかった電力会社(Public Service company of Colorado)の人の厚意で、閉鎖された発電所を訪れることが出来ました。もう今では、跡形もなくなっていることでしょう。当時、発電所の周囲は、広々とした牧場で、春には、Cotton Treeの綿帽子が舞って、母牛が、牧場の野原でお産をしている風景が見られたものです。発電所のそばを流れる小川には鯉が群がっていました。11月から5月まで続く、ロッキー山脈の長いスキー・シーズンには、直勤務を一緒にしている米国人のチーム・メイトと、夜勤明けの連休に、必ずスキーに出掛けたものです。
       また蛇足ですが、大河小説「Centennial」の著者は、確か、ミュージカル「南太平洋」の作者(?)だったと思います。映画にもなったので、あの南太平洋の甘い雰囲気は、当時の多くの日本人を酔わせたものでしたが、「Centennial」は西部の歴史を太古から20世紀前半頃まで書いているので、その英語とともに、「アメリカ西部」好きの人間にはたまらない魅力があります。僕も、Boulderに居たときには、素朴な古いCountry Westernのレコードをだいぶ集めたのですが、引越しで全て失いました。今では、当時、Boulderのアパートと発電所を往復する時に、時々、カーラジオから流れていたJohn Denverの・・take me home country road・・や、Carpentersの・・Yesterday once more・・だけが忘れられず、耳に残っています。

      コメント by 武田充司 — 2010年7月13日 @ 23:01

    4. 大橋様、武田様
       私はお二人のようにDenverに深い関係があったわけではありませんが、PortlandOregonとDenverにはそれぞれアメリカ電力庁のBPA(送電担当)とBOR(西地区の水力発電担当)がありましたので、仕事の関係で何回か行きました。さらに後半は、BoulderをIT関連のハイテクベンチャー企業との関係で頻繁に訪問しました。
       1970年にPortland,Vancouver,LosAngelesと西海岸を回ると、日本から渡った方々のご苦労の跡や、それを祈念する多くのものを見て、感無量でした。大戦と同時に抑留され辛い生活を強いられたのは、戦時中に新聞に書かれていたのを見て(中立国経由の記事だと思います。)小学生ながら憤慨したものでした。
       さて、DenverのBORには、1974年に行きましたが、製品説明を聞いてくれる先方の責任者はY.Nittaさんといい、お会いすると、なんと風貌、立ち振る舞いまでが、山田直平教授にそっくりの方でした。
       案の定、説明を聞いている20人程のBORの技術者は、目を白黒し、「我々のボスはY.Nittaだが、説明しているのもY.Nittaで、これは一体どうなっているのだ。親戚か」と聞かれましたが「全く関係ない。」と答えました。
       説明の途中で、彼ら同士で討論するところもあったが、責任者のY.Nittaさんの英語は、全くのNative Speakerそのものでした。
       説明が終わりますと、別室に案内され、格調高い日本語で、「本日は、遠路はるばるお越しいただきーー」と挨拶され、感心しました。個人的なことは聞かずに別れましたが、察するに日系二世の方で、英語を母国語とし日本語をご両親からしっかりと教えられて育ったのだと思います。このような方が、アメリカの技術者の要職についていることにうれしく思いまた誇らしくも思いました。
       懐かしく思い感想を書かせてもらいました。

      コメント by 新田義雄 — 2010年7月14日 @ 22:46

    5.  僕の聞いたところでは、Denverの日本人コミュニティーは、大陸横断鉄道建設工事で働いた日本人が、その後、あの地域に定住したしたのが始まりだそうですが、この人たちの勤勉さと誠実な仕事振りがあってこそ、あの大陸横断鉄道の突貫工事が達成されたのだと思います。Fort St Vrain原子力発電所で、敷地内の芝生や樹木の手入れをしていたgardener(庭師)に、Sam Koshioという僕より年配の日系2世の人がいましたが、彼の仕事振りも実に立派で、発電所の芝生はいつも見事に手入れされていました。時々、その美しく手入れされた芝生の上で、彼と立ち話をしたものですが、話は殆ど英語でした。しかし、時には、日本語の練習と称して、日本語を使うこともありました。あるとき、彼は、外国人の使う日本語辞書でなく、日本人の使っている国語辞典が欲しいと言ったので、帰国後、高校生が使うような国語辞典を彼に送ってあげました。彼は、まだ両親の国(日本)を見たことがないので、一度日本に行きたいと言っていました。その後数年して、彼は奥さんと2人で(奥さんも日系2世)、日本に観光見物にきましたので、東京で会うことができました。その後も毎年クリスマス・カードの交換が続きましたが、ある年に、奥さんの名で届いたカードに、Samが亡くなったと書かれていました。それが、我々の通信の最後になりました。僕の記憶に間違えがなければ、Samは Fort Lupton に住んでいたはずです。もしかすると、大橋君の親戚の人たちが知っている人だったかも、などと思ったりします。

      コメント by 武田充司 — 2010年7月16日 @ 20:56

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