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  • 岡山朝日高校卒業50周年記念/大橋康隆@クラス1955

     岡山朝日高校の同期生にとって、最初にして最後の力作は「岡山朝日26会卒業50周年記念アルバム」であろう。


    写真1(表紙)写真2(はじめに)写真3(編集後記)を見れば、完成に至るまでの経緯と時代背景がよく判る。

     2001年、第22回関東地区岡山朝日高校の同期会幹事は、3年生の時のG・ H組であった。小生はG組だったので、卒業50周年の記念企画に参画する幸運に恵まれた。 写真1:表紙縮小版.jpg 写真2:はじめに縮小版1.jpg 写真3:編集後記縮小版.jpg

    (写真1)表紙

    (写真2)はじめに

    (写真3)編集後記

     当初、旅行などの案も出たが、一時的だし参加者も限定される。文集も年齢的に無理だ。そこで、A4用紙1枚に各自思い出の写真を載せて、写真の説明と近況報告をするよう提案したところ、全幹事の賛同を得てスタートした。幸い、同期生からの反響は大きく、岡山は勿論、関西や国内外からの参加を得た。恩師7名、同期生133名から原稿が集まり、151頁の立派な作品が完成した。この様な貴重な記録が集まったのは、戦後の激動に揉まれ、旧制中学からそのまま新制高校へと6年間、なかには小学校を含めて12年間も苦楽を共にした密接な交友があり、且つ高校3年生の1年間は男女共学になったという特殊事情があるであろう。
     7人の恩師から原稿を頂き大いに感激した。とりわけ、高校1・2年の担任だった佐藤米司先生の「思い出」を読むと、父を亡くして呆然としていた頃の精神的支柱であったことを改めて思い出す。少々長いが、一部を引用させて頂く。
     「勤続21年、その間3年間持ち上がり担任は皆様の学年のみ。しかも一年担任の当初から生徒指導には骨が折れた。入ったこともない喫茶店を覗いたりもした。また先生方の指導が納得出来ないのを了解させるのに暇がかかることもあった。一中入学以来6年間在学した皆様の卒業の2年後には、新制中学卒業者が入学して来たが、おとなしく、手がかからない。何か拍子抜けの感を味わったのは私だけではなかったらしい。皆様の学年ほど、先生と生徒とがぶつかりあい、一つになった例はないように思う。」
     3年生の時の担任、藤原芳男先生はご年配のため原稿が頂けず残念であったが、「兵庫県南部大地震」のお見舞いを兼ねて、有志3名が神戸のご自宅を訪問し「藤原先生を訪ねて」を寄稿してその時の写真も掲載された。
     岡山大空襲の写真や記録、岡山朝日高野球部が県大会で優勝した古い写真もある。残念ながら東中国大会の準決勝戦で鳥取西高校に延長の末敗れた「野球少年時代」の思い出もある。一方「スペースシャトル」では、向井さんが打ち上げられる瞬間の写真があり、「毛利さんの案内で向井さんのご両親と一緒に観覧席で、この世にこんな大きな音が存在するのかと思われる轟音と共に、白煙を引きながら宇宙へ消えていくスペースシャトルを見るという、本当に感激的な体験をしました。」との貴重な体験談もある。東南アジアや南米で活躍した友人も結構いて、貴重な写真と体験談が掲載されている。

     小生は、「1961年の夏」で、フルブライト留学時のエピソードを書いた。ハーバード大学に行く前の夏休みに、エール大学で1ケ月研修を受けた。昼食会にルーズベルト大統領夫人が出席された際、小生が米中問題について質問したのに対し、丁寧に回答されている写真を掲載した。(写真4)翌年に夫人の訃報を知り、貴重な写真となった。 写真4:1961年の夏縮小版.jpg

    (写真4)1961年の夏

     原稿の編集には苦労した。フォーマットは具体的に連絡したが、パソコンの原稿は半数に満たない。原稿用紙で来たのは良い方で、ワープロで来たのは修正が難しく結局打ち直した。「息子の嫁さんに頭を下げて打ってもらったので、修正は勘弁してくれ」という涙ぐましい手紙もあった。不鮮明な写真は、明るくした写真と、暗くした写真を切り張りして合成した。マニュアルを読んでいては間に合わないのである。原稿の写真より鮮明になり本人は吃驚していた。原稿集めに忙しい8月に、小生が以前から計画していた北イタリア旅行に出かけて、幹事グループには負担をかけてしまったので、パソコンを打つことで穴埋めした。この頃はまだ68才で元気があった。
     「岡山朝日26会卒業50周年記念アルバム」は、岡山城の入口前にある岡山県立図書館にも寄贈してある。帰郷したある日、図書館を訪れ、女性担当者に検索を依頼したが見つからない。責任者の青年に探してもらったら出てきた。完全に正確な題名を入力する必要があったのである。その青年が「私の祖父も朝日高校の先生でした。」というので名前を聞いたら、国語を習った服部忠志先生であった。当時、先生は短歌の会「龍」を主宰されていて、岡山や関西地方では広く知られていた。「あなたの御祖父様のことも、教え子が書いているので暇を見つけて読んで下さい。」と勧めておいた。

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