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  • 西側への門戸解放直後のプラハを訪ねた思い出/新田義雄@クラス1955

     去る1月16日のブログに、「ベルリンの壁崩壊から20年にあたっての思い」を投稿し、1971年、冷戦真っ只中に壁に囲まれたベルリンを訪問した時のショックと驚きを書いた。


     
     今回は、1991年5月、西側からの訪問が自由になってまだいくらも経たないときに(いわゆるベルリンの壁崩壊は、1989年11月9日)、チエコのプラハを訪ね、違った意味での大きな驚きを経験したのでそれを紹介したい。
     
     チエコと言えば、私が少年時代に靖国神社へ参拝に行った後、遊就館に立ち寄り当時の日中戦争(日本では日支事変と呼んでいた。)での戦利品を見たが、その中で当時の日本軍には無かった4本足を拡げたような大きな重機関銃があり、チエツコと呼ばれていたのを思い出す。正しくはチエコスロヴァキア製という意味だと思うが当時、チエツコ、チエツコと言われていたので、私は重機関銃のことをチエツコと言うのかと思っていた。

     第二次世界大戦のときは、ドイツの支配下から後半はソ連の反撃により戦争の影響をまともに受け、戦後はソ連によりいわゆる東側陣営に組み込まれ、共産主義国家群の一つとして歩んできたわけである。
     しかし、ソ連体制になじめず改革を提案したがソ連の入れるところとはならずソ連の軍事介入を招き、我々も良く知っているように先ず1956年「ハンガリー動乱」におけるナジ首相の切実な「最後の放送」を聞き、また1968年チエコスロヴァキアではプラハがソ連の戦車に蹂躙され、いわゆる「プラハの春」を招いた辛い経験を知っている。
     技術者としては、東欧の中では、チエコが群を抜いて技術力、工業力が優れ、シュコダに代表される重工業も発達していることなどはよく認識されている。1972年に技術交流の一環として国交回復前の中国に招かれ、上海で技術の紹介をしたことがあったが、見学で案内された新鋭工場では、チエコ製の工作機械が活躍していたのが印象的であった。
     
     1991年5月、ドイツの会社との会議が設定されたとき、東側諸国の門戸が開かれた直後ではあったが、土日を利用してチエコのプラハへ行ってみようと考え、同行の者に計画を立ててもらうよう依頼した。
     ところが門戸開放とは言うものの、プラハのホテルの予約がどうしてもとれず、(おそらくまだ西側の一般人を受け入れる体制が整備されていなかったのであろう。)計画をあきらめてくれと言われたが、それならば、「車で行って車内に泊まろう。」とまで言ったので、もう一度探すことになり、その方面に力を持ったある旅行社が見つけ出してくれた。それは「ホテル・プラハ」と言い、ソ連のブレジネス第一書記が泊まっていたホテルとの事であった。
     5月26日の土曜日、ニュルンベルグ空港からフランクフルト経由でプラハまで飛んだ。空港でタクシーに乗り、不安なので先ずホテル・プラハにチエックインすることにした。走り出すとタクシーの女性の運転手がドイツ語で話しかけてきたが、始めから終わりまでソ連の悪口で少々驚いた。少なくとも1年ほど前までは、共産主義体制であったのでまさかこれほどまでにソ連の悪口を言うとは思っても見なかった。そのときは、ソ連の主力部隊はすでに退去しており、ごく一部の憲兵隊が残っているだけとの事であった。要旨は「ソ連はチエコへ来て、我々の金で飲んだり食ったりし、また毎晩、何もせずに、ただ大酒を飲んで過ごしていた。」と言うことを幾つかの例をあげて興奮してこちらに訴えていた。
     ホテルは小高い丘の上に立ち、予約は成立しておりほっとした。各部屋にテラスがついており、おそらくブレジネフ第一書記の多くの随行者が泊まった部屋であったろう。(別に驚く程立派なホテルというわけではないが、地下に5レーンほどのボーリング場があったのに驚き{閉鎖されていたが}印象に残っている。)
     部屋に荷物を置くのもそこそこに、ホテルの玄関に出てタクシーに乗り、最初に行くところとして、「プラハの春」の記念碑のところを指定した。そのせいもあってか運転手(今度は男性だったが)がやはりドイツ語で話しかけてきて、先ほどの女性の運転手ほど深刻な表情ではなかったが、ほぼ同じように、「ソ連が、我々に何も良いことをしてくれず、ただ我々の金を使って大酒を飲んで帰っていった。」という趣旨の話をした。
     最初の運転手の時は、予期していなかったので少々驚いたが、しかしこの運転手の個人的見解かもしれないと思って聞いていたが、二人目の運転手もほぼ同じようなことを言ったのを聞いて、チエコではソ連及び共産主義体制が完全には受け入れられてはいなかったなとつくづく感じた。 
     
     「プラハの春」の現場は、かって白黒のニュースで見たときは、市街電車の線路が敷かれている広い道路をソ連の戦車が走っていたが、既に、線路は除去された広い道路の端に記念碑が立ち、周りに若い大学生風の写真が額に入れられて何枚か置かれ、花でぎっしりと囲まれていた。多くの人がじっと見詰めていた。
     黒い服を着た老婦人が、ただ無言でゆっくりゆっくりと花を飾り水をやっていた。この婦人は毎日この様にしているのだとの事であった。おそらく犠牲者に関係する者の一人だと思われた。
     我々もしばらくそこに佇み、やがてそこを立ち去り有名なプラハ旧市街へ行くべくわき道に入り普通は観光客が行きそうも無い道を歩いていた。やがて一本の道を曲がったとき目の前に現れた光景にギクリとして思わず立ち止まってしまった。なんと、ソ連兵の軍服と軍帽が3セット、道を横切るように高く張られた綱にぶらさげられていたのだ。確かにソ連兵の軍服、軍帽を道端で売っているのを見たが、この光景をただ単に軍服、軍帽を干しているのだと見る人が何人いるだろうか。何かの意図を表しているのではなかろうか、プラハ市民のソ連に対するささやかなレジスタンスの気持ちを表しているのではなかろうかと考えるのが普通であろう。
     本当に驚くと同時に、タクシーの運転手の言葉と合わせて考えると大いに考えさせられるものがあった。
     
     やがてプラハ旧市街に入り、中世の佇まいを残している光景に感動すると共に、オーストリア、ザルツブルグ生まれのモーツアルトが、オペラ「フィガロの結婚」をウイーンに引き続いてプラハで1787年に大成功をおさめ、続いて「ドン・ジョバンニ」を自らの指揮で初演したエステート劇場を見て感慨無量であった。モーツアルトの交響曲第38番は「プラハ」と呼ばれている事を見ても、モーツアルトとプラハの関係の深さを感じ取れる。
    18世紀、19世紀に亘りオーストリア帝国、オーストリア・ハンガリー帝国の中で、ハップスブルグ家の政治・文化の下に長く過ごして来たチエコスロヴァキアが、第二次世界大戦後、違った民族、違った政治体制、違った文化に支配され、最後までそれに馴染めなかった事も理解される気持ちであった。
     わが国も、かって他民族、他文化を力で支配し、その上に同化政策を押し付けた過去があり、今その反動を受けているのは、このプラハで見て聞いたことを思うにつけ深刻に考えさせられる。この様なことは二度としてはいけないという厳しい教訓を学んだ気がしている。
     旧市内から有名なカレル橋を渡ったが、両側に多くの露店が並べられてはいたが、観光客もまばらで閑散としていた。3年後、同じ5月に妻と観光で訪れると、あの時とは打って変わってカレル橋の上は観光客でごった返していた。
                                     2010,03,26 

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