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  • 「へっぷりむし」/寺山進@クラス1955

    まえがき
     発端は高橋兄の投稿写真「吾妻山頂の菜の花」だった。


    之が私の故郷二宮の紹介、更には小学校四年と五年で担任だった先生の思い出話に繋がった。「二宮の人間はお人好しで、向上心や競争心に欠けるから有名人が出ない」と嘆きながら、結構「二宮人」の生き方を好んでいた。その一方で、軍国主義の時代風潮に反発し、平教員のまま定年を迎えた先生である。こうなると、三年生の担任だったもう一人の恩師についても、書き残しておかねばならないと思うようになった。

    「へっぷりむし」
     小学校低学年の頃、「へっぷりむし」という渾名の友達がいた。悪童連中は時々、この友を取り囲んでは「へっぷりむし」といって囃し立てていた。
     ただ、いま問題に成っている「いじめ」とは一寸違うように思う。我々はみんな仲が良かったし、本人がリーダー格で悪戯をする時などは、仲間を服従させたりもしていた。しかし渾名を言われる時は、あまり好い気持ちでは無かったのかもしれない。

     ある日のこと、例によって「へっぷりむし」と囃し立てていて、ふと振り向くと担任の先生が立っておられた。戦時中の教員不足を補う為に採用された「代用教員」である。昼間は生徒たちを教え、夕方から早稲田大学の夜間部に行って勉学に励んでいる、まだ若い先生だった。
     「おかしいな」先生は小首を傾げて腕を組んだ。「“屁をひる”とは言う。だから“屁っぴり虫”なら分からないでも無い。しかし日本語には“へをふる”という表現は無い。どうして“へっぷりむし”と言うのだろうか」
    「おまえ、分かるか」と先生は突然、私を指さして言われた。もとよりそんな事が分かる筈もない。私は他の友達と顔を見合わして、ニヤニヤするばかりだった。
     「まあ、お前たちも良く考えてみてくれ」先生はそう言いながら背を向け、そのまま立ち去ってしまった。

     不思議な事にそれから、悪童連中は「へっぷりむし」を口にしなくなった。そればかりでは無い。友達を渾名で呼ぶこと自体、何時の間にか無くなってしまった。もっともこの事に気付いたのは、ずっと後になってからである。

     昭和二十年(1945年)、この年の九州の桜は満開期間が異常に長かった。連日の如く大量に失われていく日本の若人の命を悼むかのように、花は散り惜しんだ。
     前々年秋の学徒動員で海軍に応召されていた先生は、菊水一号作戦に参加され、沖縄県慶良間列島沖合で散華された。享年二十三歳であった。

          昭和二十年四月六日付
          任 海軍大尉
          神風特別攻撃隊第一護皇白鷺隊第二小隊小隊長
            海軍少尉           志澤保吉

                                                                       平成22年4月6日

    4 Comments »
    1. 寺山少年に素晴らしい思い出を残し、後に沖縄の空で散華された先生への鎮魂のメッセージ。
      読んでいてジーンと来るものを感じました。

      コメント by 大曲 恒雄 — 2010年4月16日 @ 10:28

    2. 小学校の先生の思い出は、戦争で追い詰められた日本の運命と共に悲しいものが多い。
      小生が5年生の時だと思う。国語で「月光の曲」の話を学んだので、ぜひ実際に聞いてみたいと、音楽担当の若い女性の赤枝先生に皆でお願いした。先生は真剣に練習された後、演奏して下さり、一同大感激した。間もなく赤枝先生は結婚して満州に赴かれ、その後の消息は判らない。
      5年生の時、担任の中塚富治先生は、1943年3月に南方派遣教育要員として南方に赴任された。1946年に帰国されたが、中年になってから帰郷時にお訪ねしたところ、小川校長先生をはじめとする立派な壮行の辞と共に、小生の筆書きの文章も見せられ恐縮した。
      思い出深い岡山市立弘西小学校も、過疎のため4つの小学校が統合され、廃校になってしまった。

      コメント by 大橋康隆 — 2010年4月16日 @ 17:42

    3. 寺山さんの思い出多い志澤先生の霊に心からの追悼の意を表します。
       辛いですね。私は九州の知覧航空隊(陸軍)跡の記念館を訪ねたことがありましたが、遺書、遺品を涙なくは見られませんでした。
       先生も、僅か1年強、しかもガソリン節約で十分訓練が出来ないまま、最後は97式艦上攻撃機の旧式機で、重い爆弾を積んで飛んでいった事と思います。
       辛いことですが、特攻隊は我々が戦時中に聞いていたような華々しい戦果をあげることは出来ず、空母を目標にしていましたが数隻の護衛空母(略式空母、物凄い工業力で大戦後半2年で130隻ほど建造しています。)を沈めたにとどまっています。制式空母には全く歯が立たず、たとえばNYハドソン川に繋がれている制式空母イントレピッドは、5回特攻機の体当たりを受けたそうですが、いずれも数時間後には戦列復帰したそうです。
       あたら青春を無駄にしないような社会にすることが我々戦時少年の願いですね。
       
       

      コメント by 新田義雄 — 2010年4月17日 @ 17:01

    4. 大曲、大橋、新田の諸兄をはじめ、お読み下さった皆様方に感謝します。
      六十五年の歳月を経て、思いもかけない方々から追悼のお気持ちを頂き、先生の御霊も慰められた事と、心から御礼申し上げます。

      コメント by 寺山進 — 2010年4月30日 @ 07:21

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