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  • 梅の名所:月ヶ瀬/西道夫@クラス1955

    関西の梅の名所、月ヶ瀬を紹介する。関東では梅と言えば、水戸の偕楽園が最も有名だが、関西では月ヶ瀬である。


    1.場所:京都の御所(これが関係あるのだ)から南へ30km、東へ16km行った所に笠置山があり、更に東へ10km、南へ5kmの所に月ヶ瀬がある。鉄道なら、JR関西線の月ヶ瀬口駅の南方5kmにある。バスやタクシーは無いので、行くなら、JR奈良駅からバスに乗り、1時間半で着く。梅の季節には毎日臨時バスが運行されるが、多くの人はマイカーか、バスツアーに参加して行く。
    2.梅:偕楽園は庭園で、ほぼ平坦な園内には多種類の梅があり、名札も掛かっているので、姿や香りも楽しみながら散策する。月ヶ瀬は梅園でなく梅渓と言われている。東から西方向に流れる名張川の北側の斜面(南向き)や川の両岸(但し一部分)に普通の梅が植えられている。勿論、紅梅も少しある。梅渓の長さは1km程である。上記の斜面に散策路があり、下の方を眺めながら梅の香りと渓谷の美しさを楽しむ。

    梅渓の東端に温泉があり、横には地元の農家の方々が作った野菜類、草花、梅干し、漬け物(いずれも生産者名が書かれている)など様々な品物が売られている。なお、この梅渓周辺の畑や山にも梅が多く植えられている。桜と違って景色全体を楽しむ程ではないが、シーズンには非常に大勢の人々が訪れる。やはりこの素朴な風景が好まれるのではないかと思われる。写真を何枚か添付します。

     紅梅.jpg  写真2a.jpg 写真3.jpg 
        紅梅    白しだれ梅と
      月ヶ瀬ののぼり
        吊り橋と梅林

    では、月ヶ瀬の梅の歴史をここに紹介する。

    3.月ヶ瀬の歴史:これを紹介する説明盤がある。内容は以下の通り。
    「園生姫と月ヶ瀬梅林」後醍醐天皇が笠置落城の折り、天皇に信の厚かった園生姫が数名の家来に守られ、山中を下り五月川に添って上流へ落ちのび山を越えてこの地に至ったが、疲労と空腹のため倒れたのである。心暖かい村人の介護により一命をとりとめた姫は、平和で美しい村人達の心に惹かれ京の都へ帰るのをおもいとどめ、この地に永住を決めたのである。
    或る日、村人の案内で天神社に参拝された時、周辺に植えられた梅に熟れた実が鈴なりになっているのをみて、烏梅を造る事を教え、宮中の御用商人に紹介状を書き、製品を馬の背に家来一人を道案内に京へ旅立たせた。
    姫の言葉通り高価に売られた事に驚いた村人は、山を拓き梅を植栽し、やがて尾山の山嶺から五月川までの急峻な山林が段々の梅林と化していった。
    烏梅の話は隣村から隣村へと広がり、正保年間以降は十万本を越す梅林が造成されたのであるが、僻地のため世の人々に知られる事はなかった。
    幕末の頃から文人の目にとまり、やがて天下の名勝として広く紹介されたのである。
    奇しくも此の園生の森に温泉が湧出し、姫の湯として多くの人達に親しまれているのも、今なお優しい姫の愛情が息づいているようである。
    園生温泉竣工を記念し、姫の御高徳を永久に後世へ伝えるため、有志並びに賛同者により、姫の碑を建立するものなり。
      平成十年十二月吉日    園生姫之碑建立有志会
    [参考]後醍醐天皇:1318~1338(この間、1331以降は南朝)
          正保年間:1644~1647
          烏梅(ウバイ):梅の実を干していぶしたもの。色が黒く、香気がある。
          はれもの、下痢などの薬料とし、また染料にも用いる。(広辞苑)
          尾山:月ヶ瀬とその周辺全体の地名
          五月川:今は名張川と改称されている。なお、3km上流に架かる橋は
          五月橋であり、近くを通る自動車道には五月橋ICがある。
    上記に「笠置城」の記載がある。3年前、笠置山の山頂にある笠置寺を訪ねた際に入手した資料の一部を以下に紹介する。

    4.笠置寺:すでに2000年前から笠置山の巨岩は信仰の対象となっていた。しかし実際に建物が建てられ人が住みついたのは1300年前で、東大寺の実忠和尚、その師良弁僧正によって笠置山の大岩石に仏像が彫刻され、その仏を中心として笠置山全体が一大修験行場として栄えた。鎌倉時代の建久2年(1191)藤原貞慶(後の解脱上人)が日本の宗教改革者としてその運動を笠置寺から展開し、笠置山は宗教の山、信仰の山として全盛を極めた。
    しかし元弘元年(1331)8月27日、倒幕計画に失敗した後醍醐天皇を笠置寺に迎えたため、攻防1ヶ月、遂に笠置山は全山焼亡、以後室町時代少々の復興を見たが、江戸中期より荒廃、明治初年には無住の寺となった。
    明治9年丈英和尚は荒れ寺に住して笠置寺の復興に尽くし、20年でようやく現在の姿となった。(以上が資料記載の内容概略)
    笠置寺境内見取り図には本坊、鐘楼、毘沙門堂などのほか、修行場めぐりがある(有料)。ここに魔崖仏、石造十三重塔、胎内くぐり、二の丸あと、行在所(これは後醍醐天皇の住居があった場所)、その他

    写真4a.jpg 
      月ヶ瀬観光協会
      パンフレットより

    があり、全部見て回れば800m、40分はかかる。

    5.その他:月ヶ瀬へは我が家から車で40km、
    1時間のドライブで行ける。目的は温泉と農産物である。温泉は特別の効能は判らないが、大変よく暖まるのが特徴で、家に帰ってもまだほかほかしている。農産物がよい。ここの椎茸は笠が広がったままの、昔からあるもの。最近スーパーでは全く見られない種類である。梅干しも良い。殆どの訪問者は歴史を知らないと思うが、兎に角来てくれれば、それでよいのではないかと思っている。私自身このブログ原稿作成がなければ何も知らずに温泉を楽しんでいるであろう。 
       以上   2010.3.10

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