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  • 「かぎろひの丘」を訪ねて/西道夫@クラス1955

    去る10月末、柿本人麻呂がこの歌を詠んだ大宇陀にハイキングで行った。


    1.場所:大宇陀は奈良市から南へ18km、東へ7kmの地点にある。標高は奈良市より70m程高く、地形は周囲を低い山々に囲まれた盆地で、その大きさは東西1km、南北2km程である。この盆地の南寄りに直径50m、高さ10m程の台地がある。この台地が「かぎろひの丘」と名付けられている。ここで台地での写真を紹介

     かぎろひの丘(1).jpg  かぎろひの丘(2).jpg
     写真1:かぎろひの丘で
         東南方向を見る
    写真2:かぎろひの丘で
         西方向を見る

    する。写真1は台地から東南方向の景観で、草原は無い。写真2は台地の東端から西方を見たもの。
    写真3はかぎろひの歌碑である。今の盆地は住宅と田畑が混在しているが、当時は草原の狩り場であった。なお、現在でも狩場の名

     かぎろひの丘(3).jpg
     写真3:かぎろひの
           歌碑

    残がある。大宇陀の東約3kmに菟田野(うたの)という集落がある。ここは動物の剥製や毛皮生産の町で、ローマ字の看板が目立つ。海外のバイヤーが訪れるためであろう。
    2.冬の気候:冬季の最低気温は奈良市は仙台より
    1度程高いが、大宇陀の気温は奈良市より2度低い。冬季の朝の冷え込みは相当厳しい。
    3.柿本人麻呂:7世紀末の古代国家体制確立の頃、特に持統天皇(671~697年)の時代を中心に活躍した。万葉集には彼の約60首の歌が入っている。次の天皇と目されていた草壁皇子が689年に28歳で亡くなったとき、人麻呂は65句からなる挽歌を詠んでいる。なお、その後の政治上の変化を記すと、694年飛鳥から藤原京に遷都、697年文武天皇(軽皇子)即位、710年平城(奈良)遷都、である。
    4.「かぎろひ」の歌:持統元(692)年、軽皇子(かるのおうじ)が、今は亡き父・草壁皇子を偲んで阿騎野(今の大宇陀)で狩りをしたとき、皇子のお供をした人麻呂は、やはり草壁皇子を偲んで眠れぬまま夜明けを迎えた。旧暦の11月17日早朝である。この時に詠んだ句が「東の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ」である。
    5.「かぎろひ」とは何か?:これは昔から明確ではなかったようで、20年以上前に学者が集まって議論し、次の結論を得た。即ち「日の出の1時間ほど前の陽光による東の空一帯の美しさ」 である、となった。しかし、私はこの結論に疑問を持っている。

    6.私の「かぎろひ」に関する見解:
    ①物理現象から:冬季の晴天の明け方、無風状態の場合は、平地表面は放射冷却で可成り低温になる。これに接する空気が湿っている場合、空気中の水蒸気は氷結し、恰も地表に雲或いは煙りが漂うように見える筈である。ただ、晴天の明け方ではもともと空気の湿度は低いので、いくら地表の温度が冷却されても、そう簡単に水蒸気が氷結するとは考えられない。しかし地面でなく、川の表面なら湿気が高いので、水面上に雲状の霧が生ずる。
    これは、私が以前冬季に兵庫県三田市(六甲山の北側)を通って更に北にあるゴルフ場に行く際に、川の土手の道路を車で通ったので、この現象を度々見た。大宇陀の盆地ではどうか。周囲に山があり、かつ平坦なので、山からしみ出る水が盆地に溜まる筈で、地表の空気は可成りの水分を含むことが予想される。
    次に、月夜の明るさを考える。以前、クラス会で月光に輝く富士山を新幹線車窓から見られる事を話したが、十五夜前後の月光は明るい。昔、家の庭にあるゴルフ練習用ネットに向かって、月夜の晩にボールを打った。明るさは充分だったが、余りに大きな音がするので、2球で止めた。歴史上の夜の事件では、忠臣蔵の討ち入りは12月14日、本能寺焼き討ちは6月2日である。話を大宇陀にもどして、人麻呂は十六夜の明け方にこの歌を詠んだのである。
    ②人麻呂の精神状態:こう書くと大げさだが、寂しい思いを抱いていたので、太陽の光を詠む気持ちにはなり難い。やはり月の光を詠んだ筈である。
    ③炎(かぎろひ)が立つ:草原表面に白く霞がかかっているのは、恰も地表で火がくすぶっている様に思われる。それを表現したのであろう。

    7.「かぎろひを観る会」:毎年、旧暦の11月17日午前4時から、かぎろひの丘で開催されている。晴天なら学者の結論の景色が見られるであろう。事実、去る12月10日の読売新聞朝刊に、「8日午前5時45分頃から尾根の縁が輝き始め、高見山のシルエットが浮かんだ」の記事と写真が掲載された。なお月齢は18日位であった。美しい景色の写真である。

    8.私の説のかぎろひ:もう観られないと思われる。なぜなら、丘から東を見ても、草原でなく、住宅などの建物が見えるだけである。例え建物が無くても、町の中心を南から北に流れる宇陀川は深さ4m、幅7m(いずれも目測)程で、しかも側面はほぼ垂直に石垣で築かれている立派な川になっている。これでは平地に水が豊富にある状態にはならないであろう。
    なお、織田(信長)家が関係する大宇陀の町を後刻、改めて紹介する。
                      以上  2010,2.5

    2 Comments »
    1.  「かぎろひ」についての現場のデータなどを踏まえた科学的な考察には、大変感心しました。昔の人の日記や、詩や絵画などを、理系人間の目で、ゼロから素直に考えてみることは、とても意味があると、以前から思っていました。
       伝統的な専門家は、異業種の人間の評価にあまり注意を払わないので、学会や大家の定説と言われているものにも、たまに、おかしなものがあるようです。
       以前、ブリューゲル(Pieter Brueghel)の絵、たとえば、「雪中の狩人」などを、気候変動の歴史研究の立場から考察しているのを読んだことがあります。
       これからは、こうした専門分野を異にする人たちの垣根を越えた(越境)研究が重要になると思います。
       話が、少し大げさになりましたが、「門外漢の横槍の一突き」も面白いと思います。

      コメント by 武田充司 — 2010年2月11日 @ 11:42

    2.  終戦直前の旧制中学1年1学期、勤労奉仕の合間に二三度受けた国語の授業は、万葉集でした。西兄が取り上げているこの柿本人麻呂の短歌は「東に日の出直後の太陽、西に沈みゆく月を同じ天空に詠った、気宇壮大なものである」みたいな事を教わったような気がします。全然違ってましたね。
       「かぎろひ」の意味、西見解が正しい様に思えて来ました。学者の方々は、どういう根拠で統一結論に達したのでしょうか。

      コメント by 寺山 進 — 2010年2月12日 @ 15:14

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