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  • 正岡子規と古今集/武田充司@クラス1955

     正岡子規が明治31年2月14日に出した「再び歌よみに与ふる書」には、あの有名な「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候、云々」という一文が載っています。

    彼は、このあとも次々と「歌よみに与ふる書」を書き、最後は、同年(明治31年)の3月3日の「十たび歌よみに与ふる書」となるわけですが、僕は、高校時代にアララギ派の国語の先生から、かなり詳しく子規の短歌論を吹き込まれたせいか、この「古今集はくだらぬ集に有之候」に影響されました。勿論、そうは言っても、万葉集を有難がっているだけではと思い、古今集をひととおり勉強しました。そのとき、幾つもの歌に魅せられて心を動かされたのですが、「それは違う!」と自分に言いきかせて、通り過ぎた記憶があります。
     しかし、これも年齢(とし)のせいでしょうか、最近になって(といっても随分昔の話ですが)、自分の心の中にずっと燻っていた子規の短歌論に対する違和感に抗しきれず、竹西寛子の「古今集の世界へ」(朝日選書)や、新古今の歌を論じた白洲正子の「花にもの思う春」(平凡社)を読んでみました。そして、この2人の女性の深く鋭い感性にすっかり感服し、あらためて古今や新古今の魅力にとりつかれたわけです。
     ここまで話せば、もう結論は言う必要もないのですが、子規の短歌論は、やはり彼の生きた時代と、彼の境遇を抜きにしては語れないように思いました。あれは、新しい境地を開こうとする子規のプロパガンダのようなもので、ある種の演技であって、かなりの誇張があると理解してあげるべきものと思いました。ただひとつ、心に引っかかったことは、子規は古今集や新古今を、本当はどう思っていたのだろうか、ということでした。
     鈴木日出男の「古代和歌の世界」(ちくま新書)や、俵万智の「短歌をよむ」(岩波新書)は、勝手な解釈かもしれませんが、僕の和歌に対する気持ちを支持してくれているように思いました。ごく最近(2009年夏)出た渡部泰明の「和歌とは何か」(岩波新書)もまた、別な角度から、和歌の本質を解きほぐしていると感じました。
     僕は短歌を詠むことはしませんが、和歌は日本文芸の主柱だと思っています。前述の竹西寛子の本の副題となった「さくら花、散りぬる風のなごりには、水なき空に波ぞ立ちける」や、それに倣って白洲正子が本の題名とした「はかなくて、過ぎにしかたをかぞふれば、花にもの思ふ春ぞ経にける」など、正岡子規なら何と評したでしょうか。最後に、子規の「竹の里歌」にある僕の大好きな歌を二首:「瓶にさす、藤の花ぶさみじかければ、たたみの上にとどかざりけり」と、「くれないの、二尺伸びたる薔薇の芽の、針やはらかに春雨のふる」を挙げて終わりにします。

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