東欧の旅/山崎映一@クラス1955
記>級会消息 (2009年度, class1955, 消息)
前回7月のブログで「K. F. Braunの業績」について述べさせて頂いたが,これはその中でも記したようにゲーテ街道の旅の途中,たまたまフルダの博物館で見つけた展示内容を主体とするものであった。今回このゲーテ街道を再び訪れ,更に東欧にまで足を延ばして見たのでそのあらましを報告したい。
旅の仲間は私の他に男性が一人,女性が二人,何れもモーツァルト愛好会のメンバー及びその友人である。そもそもこの旅を思い立ったのはこのメンバーの一人が東欧地方は未だ行ったことがないので行ってみたいと言いだしたのがきっかけ,前回ゲーテ街道に同行した男性メンバーも誘い込んでゲーテ街道再訪と同時にその後ベルリン,ドレスデン,プラハ,ワルシャワ,クラクフ,ブダペストへと足を延ばす全行程2週間(7/1 14)の旅を計画した。
そもそも愛好会メンバーの旅,モーツァルトゆかりの地を訪れたりオペラ,コンサートを聴くことも重要な目的で事前のチケットの手配など準備に可成りの苦労をした。移動手段は前回ゲーテ街道同様レンタカー利用とした。後期高齢者と言われるようになってこんな事をしても良いのかと言う思いもあったが前回免許更新時のシミュレーターテストを好成績で通過した事に免じ,なおかつもうこんな事は後何回も出来る訳ではない,やれる内にやっておこうと言う考えから実行した。4人全員が免許証は持っているもののレンタカーの運転を手伝ってくれたのは最も若い(と言ってもとっくに還暦を過ぎた)女性一人であった。
フルダを出て次の目的地ワイマールに向かう。ゲーテが大活躍し死ぬまでの50年間を過ごした街である。ここに到着して大失敗に気がついた。フルダのホテルのセーフティケースにパスポートその他を置き去りにしたことを・・。やむなく取りに戻り無事取り戻したものの3時間余りのタイムロスとなった。これもやはり年のせいであろうか。
ワイマールの後はライプチッヒをざっと見てそのままベルリンに直行。ここのStaatsoperでモーツァルトの魔笛を観るのがこの旅の目玉でもあった。チケットの入手は大変難しいと聞いていたので既に昨年の秋インターネットのJALワールドプレイガイドを通じて申し込んでおいたところ首尾よく前から4列目の中央という最高の席を確保することができた。ただし料金は1枚22,000円,送られてきたチケットには66ユーロと記されているので2倍半ものプレミアムと言う事になるがもし東京で観ればもっと高くなることは必至でやむをえぬかと変な納得の仕方をした。しかし演技そのものは大変立派なもので衣装は現代風,舞台装置も決して豪華なものではないがモーツァルトを見事に演じ切っていた。最近妙な演出のモーツァルト(例えば2006年モーツァルトイヤーのザルツブルク音楽祭)がはやる中,久し振りで本物に接した感がした。
ベルリンは前にも何度か来た事があるがさすがに壁崩壊後20年もするとかつての東独色は一掃され美しい街に生まれ変わっていた。ブランデンブルク門の近くには森鴎外記念館(鴎外が下宿していたところ)があるが生憎休館日で中に入る事は出来なかった。翌日は地元の人のお勧めで近くのポツダムを訪れた。我々の世代ではポツダム宣言でしか名を知らぬ所である。その名もSchloss Sanssouci(無憂宮)の名に恥じず美しい庭園が広がっていた。後から知ったことであるがモーツァルトも33才の時(1789年)プラハ経由ライプチッヒ,ベルリン,ポツダムという旅をしている。
ポツダムを出て午後にはドレスデンに移動,Semperoperの名で知られる国立歌劇場を訪れた。事前に調べたところオペラシーズンはすでに終わっていたがシンフォニーコンサートならやっている事がわかり辛うじてインターネットで予約する事が出来たものである。残念ながらモーツァルトにはありつけなかったがメンデルスゾーンのスコットランド交響曲とエルガーのヴァイオリン協奏曲を聞くことができた。そう言えば今年はメンデルスゾーンの生誕200年である。この劇場はSemperの設計によるものでこの様に呼ばれるが戦時中の空襲で完全に破壊されたものが見事に再建され大変立派な建物である。この劇場内部を見て歩く為だけのツアーが用意されている程である。
ドレスデンを終わって更に山越えルートを南下チェコのプラハへと向かった。
夕刻プラハに到着,お城の裏口近くのホテルにチェックインし日が暮れないうちにと先ずお城とその周りを見て回った。本格的な市内観光は翌日となるがこの街はトラムと地下鉄が発達していて一日乗車券を買っておくとどこへでも行くことができ大変具合がよい。まず向かったのはベルトラムカ荘(右写真),モーツァルトがプラハのドゥーシェク夫妻に招かれて滞在していた所である。お城の南,街はずれに近い所にあるが緑の中広い庭園が広がっていて気持ちの良い所である。プラハで初演されたドン・ジョバンニはここでその最終仕上げが行われた。
一般観光コースのカレル橋やバーツラフ広場などを見た後エステート劇場(左写真)を探した。ドン・ジョバンニや交響曲第38番プラハが初演された劇場である。すぐに見つけることができたが意外にこぢんまりとまとまった美しい劇場である。入口の所でおばさんが何かを売っている。見ると今晩8時からモーツァルト・コンサートとあるではないか。思いがけずモーツァルトからプレゼントを貰ったような気分で早速チケットを買い求めた。数人の楽士によるアンサンブルに歌手が代わる代わる出てきてオペラアリアを歌うという形式でモーツァルトを存分に堪能させてくれた。
プラハを終わって次はワルシャワに向かうことになるが距離は600kmもある。この日はただ走ることのみに専念する覚悟で出掛けてみたものの思いがけぬ誤算があった。チェコ迄は快調に動作していたカーナビがポーランドでは全く使い物にならないのである。そうとは知らずやみくもに走り回って田舎道に迷い込んでしまい気が付いた時には未だチェコ領内の飛んでもない所に来ていることが分かった。地図を引っ張り出して道を聞きながらさ迷い歩くという羽目になった。何とか国境までたどり着くと検問は特になく簡単に入国する事はできたが,しばらく行くと警官に呼び止められた。昼間でもライトを点けねばいかぬと言うのである。フィンランドでそのような規則があることは知っていたがポーランドでもそうとは知らなかった。
そう言えば欧州ドライブ旅行を始める前に「地球の歩き方」欧州ドライブ旅行編と言うのを買ってきて一応各国の規則などを勉強したつもりでいたが旧共産圏はこの中に記載されていなかった事に気が付いた。そしてしばらく行くと又呼び止められた。今度はスピード違反, 50km/h制限のところを70km/h出ていたと言う。レーダー計測によるいわゆるねずみ捕りにまんまと引っ掛かってしまった次第。そう言えば前方にレーダーチェックありと言う看板が所々にあった事を思い出した。
ともかくこうしてドイツのアウトバーンに慣れた車を片端から捕まえて罰金稼ぎをやっているらしい。その罰金であるが即納を求められユーロで払おうとすると受け付けず,7km戻ったところ(つまり国境)に両替所があるからそこで換えて来いと云う事。ここでも又逆戻り出直しを余儀なくされた。この辺の国々はすべてEU加盟済みで通貨の問題は全くないと甘く見たのがいけなかった。かくしてチェコとポーランドの美しい田園風景を満喫できたのはよいがワルシャワのホテルにチェックインしたのはなんと翌日の午前3時になってしまった。
ワルシャワと言えばショパンの生まれた所,生家は市内から少し離れた所にあるので市内のショパン博物館を訪れたが目下改装中で中に入れない。仕方がないので直ぐ隣にあるショパン音楽大学の入り口ホールを見て良しとすることにした。ワルシャワは400年程前ポーランド王国の古都クラクフから遷都された比較的新しい街,確かに大きな街ではあるが見るべきものは余り多くはない。翌日はその古都クラクフに移動した。
クラクフはポーランドの南端に位置し14世紀から16世紀にかけてポーランド王国の首都として栄え,当時のプラハやウイーンと並ぶ中央ヨーロッパの文化中心であった。街の雰囲気は正に古都の趣で京都にたとえることも出来よう。歴代王の居城となったヴァヴェル城が川岸にそびえている。
このクラクフの近くに例のアウシュヴィッツがある。最後の目的地ブダペストに移動する途中で寄ってみる事にした。女性2人は見たくないと言って門外のカフェで待って貰う事にした。例のARBEIT MACHT FREIのゲートをくぐって中にはいる。赤煉瓦造りの囚人棟が28棟建っている。囚人室は何れも床にマットが敷き詰められここに雑魚寝をさせられていたのであろう。屋外には銃殺用に用いられたと言うコンクリート製の「死の壁」が残されている。ナチスの「他民族絶滅計画」などのパネル展示もありここで一体何が行われたのか,150万人の命が奪われたと言うが,収容者遺品の靴や鞄,衣服,眼鏡,髪の毛などの山を見ていると何ともやりきれない気持ちになった。
アウシュヴィッツを出て又一路南下,今度はスロバキアの山中を抜ける道である。結局ブダペストに到着したのは又夜半過ぎになってしまった。
ブダペストはドナウの真珠とも言われ美しい街である。有名な鎖橋,国会議事堂,対岸の丘の上の旧王宮などを見て歩いてその日の夕刻空路フランクフルト経由帰国の途についた。
全2週間の旅でレンタカーの全走行距離は3,000kmにも達していた。当初の計画では2,500km程度を予定していたが道に迷ったり,忘れ物を取りに帰ったりした結果である。今回の旅は全体として少し欲張りすぎた感がある。もっと範囲を絞り連泊をしてよく見て歩くべきだったと反省している。特に旧共産圏諸国は街並みは美しくなっているが,EU加盟国といえども未だに通貨の問題が残っていたりカーナビが使えぬ等の問題を経験した。これからお出掛けになる方がたはこの辺を良くお調べの上お出掛けになる事をお勧めしたい。
最後に編集長からのご助言も頂き前回のゲーテ街道を含めた全体の地図を作りましたので参照下さい。
2009年9月16日 記>級会消息
高校のクラス会出席と墓参のため、帰郷していたので、コメントが遅くなりました。
東欧を音楽愛好家仲間とレンターカーで2週間も旅行とは、優雅な趣味と若々しい気力と体力に感嘆しました。海外旅行では、小生も「地球の歩き方」を教科書にしていますが、運転が下手なので、列車とバスのお世話になっています。
2005年8月に、チェコとスロバキアを旅行した時は、空港で換金し、国境越えの時は、休日でなかったので、容易に換金できました。
2006年8月に、ブルガリアとルーマニアを旅行した時は、現地のツアーに参加したので、最初は空港で換金し、ブルガリアでは問題なしでした。しかし、ドナウ川を渡って、ブカレストに到着した日が休日で、換金出来ず困りました。幸い、ルーマニアの女性ガイドさんが、金沢大学に留学した方で、親切に奔走して下さり、数日後、昼食時に換金可能な銀行を発見して助かりました。田舎に行くと、自国通貨以外は全く通用しません。絵葉書も切手も買えないので事前の用意が必要です。
コメント by 大橋康隆 — 2009年9月22日 @ 19:08
この大旅行をずっと運転されたとは素晴らしい。感心して拝見しました。私は国内では新幹線や空の便で行ってレンタカーするのは常ですが、海外では何となく物怖じしてやっていません。右ハンドルで道も空いているオーストラリア、ニュージーランドでも飛行機やバスの世話になっています。もう遅いかなの気持ちです。
ルート図を見ながら私も旅した処もあり懐かしく想像を巡らせました。
プラハから先すぐ南のザルツブルグやウイーンに行かなかったのは、このメンバーなら既に何度も行っているだろう。近くのモンドゼー湖などはサウンドオブミュージックやオペレッタ白馬亭の舞台だがモーツアルトより後だし、それにしてもブタペストに夜半着は残念です。王宮の丘からの夜景はドナウ景観のベストに入ると思います。次回はゆっくりされたら女性も喜ばれると思いました。
このレポートを拝見して、この方々ならゲーテのイタリア紀行の各地を旅されても面白いだろうと思いました。
北イタリアから始まって、ベローナ、ベネツイア、ミラノ、トスカーナを経てローマ、南伊からシチリアも廻っています。どこも世界遺産ばかりですが、車で行けば良く見れるでしょう。それでも3000Kmより少ないと思います。
モーツアルトもその少し前に何度もイタリアを旅しているのはご承知の通りです。
勝手な想像で書きましたが、今後も益々のご健勝を祈ります。
コメント by 小林 凱 — 2009年9月25日 @ 10:06
ちょっとこの欄にご無沙汰して、増刊号が出たのに気づきませんでした。
大変よい旅をされた様子。私もレンタカー組なので、迷ったり忘れたりを自分がドライブしているような気分で拝見しました。
小生のパートナーは古希を過ぎた、まっすぐな車の来ない道でしか運転しないという婦人なので、妙齢の女性の運転で走ることの出来る貴兄が羨ましい限りです。そんななかで06年にはザルツブルグからグロスグロックナーを越えてドロミテ、チロルを歩きました。
今後も元気にモーツアルトと旅を楽しんでください。
コメント by サイトウ — 2009年9月28日 @ 12:59