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  • みなと神戸と網屋吉兵衛/小林凱@クラス1955

     この春の横浜開港150周年に関連して神戸開港の経緯を調べる内に、実に魅力的な人物が開港前夜の神戸に居たことを知った。その名は 網屋吉兵衛。

     吉兵衛は1785年摂津国神戸村生まれ、生家は商人で11歳で兵庫三軒屋の荒物商豊後屋に奉公に出る。そこで諸国の船が出入りするのを見て、海運と交易に関心を持つ。その中で船乗り達から、此処には船の補修設備が無い事が不便で当地の発展を妨げている事を聞く。
     木造船は定期的に水から揚げて貝殻を除き、船底を焙って炭化膜を作って補強する工事が必要で、当時は日数を掛けて四国に出向いて行っていた。吉兵衛は当地の発展にはこの船たで場(当時船の修理工場をこの様に呼んだ)が欠かせない、いつか自分がそれを此処に実現しようと密かに決意した。

     しかしこれは莫大な資金と技術が要る話で直ぐには実現できない。吉兵衛は先ずは仕事に精出し給金は貯金し、更に仕事を終えた夜半に一人小船を漕ぎ出し、沖で水深や潮の流れを調べて克明に記録として残した。また四国の多度津にある設備の話を船頭から熱心に聞いた。
     やがて年季奉公が明けて実家に帰り呉服雑貨商を継いだ後は、家業に精出し網屋の商売は繁盛した。しかしこの間もずっと船たで場建設の夢は持ち続けて居たが、忙しく働く内に50年の歳月が流れ吉兵衛は70歳近くになっていた。この間同様な計画が幾つかあったが、何れも準備不足から失敗していた。

     ここでもう待てないと建設の決意を公にしたが、当然ながら家族、親族は猛反対、一生精出して蓄えも出来これからゆっくりと過したらという時に、私財を擲って一から大事業を始めるとは何事かと言う。しかし吉兵衛の決意は変らず出資者も募って、1854年この建設を幕府に願い出た。場所は今日の神戸港の中突堤から東側の海岸で、以前は荒れた湿地帯であった由。そこに浚渫と護岸工事を行って乾ドックを作る計画で当時として大工事であった。兵庫代官はこの吉兵衛の願い出を江戸表に持参し、幕府の特許認可を得ている。
     この工事は3年後に完成し海運業者から大変喜ばれたが、その前後から吉兵衛の身辺には不運が付きまとう。家業を継いだ息子が病気で商売も思わしくなく、ここで吉兵衛に金を貸した人たちは一斉に取り立てに廻る。資金返済が滞る中で、この設備は活かしたい関係者の希望で、当時の神戸村が借金の肩代わりをして10年間所有権を持つ、運営は引き続き吉兵衛が行いその収益で借金を返し、返済後は再び吉兵衛に所有を戻す契約となった。
    1859年の事である。この時の吉兵衛の借財は銀75貫800匁で、磯田道史先生の資料から現在の額を推測すると、約3億数百万円になる。一方船たで場の土地一帯は、その数年後に勝海舟により海軍操練所が開設され維新後は神戸開港の中核に位置することになるが、それは全く先の話であった。更に貸借期限前に来た明治維新で、この資産は全て新政府に移され吉兵衛に戻る事は無かった。

     その頃世情は幕末にかけて急速に動いていた。関西にも開港場を作れとの諸外国の圧力は高まる一方、攘夷の動きもまた朝廷を含め強まっていた。
     1863年将軍家茂は朝廷に参内した折攘夷を要請されたが、その後4月
    22日に軍艦奉行勝海舟の案内で大坂湾を視察した。この時は砲台の建設視察であったが、勝は攘夷と叫んでも勝ち目は無い、先ず国力を付けるのが先と考えて居り、開港に備えての視察でもあった。その前に勝は開港場候補として兵庫を調べて居るうち、そこで一商人が自力で船たで場を開いた事を知り、設備も見学して吉兵衛に非常に感銘を受けていた。
     家茂はこの日海上からの視察後、神戸村に上陸しここで勝海舟の計らいで吉兵衛を引見した。家茂から開港場についての意見を求められた吉兵衛は、永年の調査の結果よりこの神戸が港として最適の地であると答えている。この時既に船たで場の所有権は神戸村に移って居たが、勝は吉兵衛の永年の功に報いたいと将軍との面会という破格の設定を行ったと思われる。(同時に幕府体制下の身分制度も、この頃の実体は随分オープンな印象である)
     またこの時勝が提案していた士官育成の海軍操練所も、吉兵衛の設備に隣接して開設されることになった。

     慶応3年(1867)次の将軍慶喜は開港の勅許を得、同年12月7日
    (1868年1月1日)を神戸開港とした。その前の10月に大政奉還となるが開港準備は進められ、予定通り明治元年に開港となった。その後神戸は港を中心に急速に発展する。船たで場の一帯は新たに開港した港の船入場となるが、そこは新政府の所有で吉兵衛のものでは無かった。吉兵衛はこの時代の転換を見届けたかの様に、翌明治2年85歳で亡くなった。全ての資産は船たで場建設に投入し遺産は何も無かった。

     この様に壮大な計画に私財を擲って神戸港発展の礎を築いた吉兵衛が、何故か後世に知られる事なく歴史の片隅にひっそりと居るのが私には疑問であった。永年家業に精励して晩年を迎えて後、なお若き日の夢に全力投入した人生のロマンは、幼い頃父から聞いたホメロスの話を抱いて、後年トロヤ遺跡を発掘したシュリーマンを思い起こさせる。シュリーマンは立派な自叙伝でその功績を世に確実にしたが、吉兵衛は何もその様なことはしなかったにしてもだが。DSCN0536.JPG
     この疑問は吉兵衛の顕彰碑を訪ねて見て、解けはしないが何か判った様な気持ちとなった。神戸市役所西の京町筋を南に下り、旧海軍操練所記念碑を過ぎて更に進むと、吉兵衛の顕彰碑が静かに立っている。その碑文には彼の神戸港への功績が要約されているが、其処には勲一等など政治家や役人の名前は無く、多くの市民の賛同によりこの碑が建てられたとのみ記されている。私と同じ様に感じた人が沢山居たと判って嬉しかった。(写真 網屋吉兵衛 顕彰碑

    (参考資料)神戸港千五百年(海文堂出版)、武士の家計簿(新潮新書)

    2 Comments »
    1. 網屋吉兵衛のような素晴らしい人物が、歴史の片隅にひっそりと残っていることは全く残念です。小林兄の「先を見た人達」で紹介された志田林三郎博士も同じです。教科書やマスコミで取り上げられる歴史は、その時代の権力者により事実が歪曲されて評価されることがあるようです。歴史の真実は、庶民の記録が、最も正確であると思います。テレビで仲代達矢主演の「残日録」を見ましたが、当時の下級武士の生活が鮮やかに描かれていました。ハーバード大学の寮で同室にいた友人は、日本歴史を専攻していましたが、江戸幕府の記録より、埼玉県の旧家の土蔵から出てきた記録の方が、歴史の真実を知ることが出来ると言っていました。朝日新聞の声欄に「語りつぐ戦争」が掲載されていますが、投稿された人々の記録こそ貴重な資料だと思います。最近、私は本を読む機会が少ないので、小林兄のブログは大変勉強になります。今後も色々紹介して頂けると期待しています。

      コメント by 大橋康隆 — 2009年8月24日 @ 19:23

    2. 大橋兄のコメントを拝見して気付きました。
      それは吉兵衛も「先を見た人達」であった事です。彼が家茂に会った時は未だ攘夷の声も高い頃ですが、何処が最適な開港地かを的確に答えたものです。彼の脳裏には諸国の船が出入りする神戸港が描かれて居たのでしょう。場所選択の根拠も綿密な調査データで、この実証的な姿勢が良い判断を残したと思います。市井の人々に立派な見識があった例でもあると改めて思いました。

      コメント by 小林 凱 — 2009年8月28日 @ 09:22

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