徒然なるままに・・・(道)/鷹野泰@クラス1955
記>級会消息 (2009年度, class1955, 消息)
日頃何気なく使っているが、「道」と言う漢字は奇妙な構造である。「首」と「しんにゅう」とで何故道を意味する文字が構成されるのだろうか。
疑問を持ち、白川静先生の“字統”を調べてみると。
・・・首を携えて道を行く意で、おそらく異族の首を携えて、外に通ずる道を進むこと、すなわち除道の行為をいうものであろう。路を修祓しながら進み導くこと・・・・
とある。
そのせいだろうか、同類の意味である他の漢字、例えば、「通」「路」「街」「筋」等よりも深い何物かを含んでいるように感じる。従って、中国に普及している道教(Maoism)にも何か深遠な哲学がありそうな気もするが、残念ながら関連の知識を殆ど有していない。ただ、日本古来のスポーツが皆「・・・道」と呼ばれ、単なる記録、勝敗の域を越えた精神的な高次の物を本来の最終目標としていると自分なりに解釈している程度である。
詩歌や絵画の題材にでも、しばしば取り上げられているのは、他の類意の文字よりも「道」が多い。人口に膾炙されている物だけでも、「この道はいつか来た道・・・・」、「ジェルソミーナの映画」「僕の前に道はない 僕の後ろに 道は出来る・・・」に始まる光太郎の詩等々。また俳諧では「奥の細道」が直ぐに浮かんでくる。更に絵画では、東山魁夷の「道」、フランスのバルビゾン派やゴッホの絵画等の幾つかが日毎に貧しくなり行く我が記憶の中からでも容易に浮かび出てくる。
中でも魁夷の絵「道」は30年程前に展覧会場で見た絵であるが、今でも強い印象で残っている。川端康成が「・・・謙虚誠実の愛情に生きる、風景画家・・・」と紹介文を書いている東山魁夷の「風景との対話」なる本の中で、著者はこの絵について「・・・・絶望と希望とが織リ交った道、遍歴の果てでもあり、新しく始まる道でもあった。未来への憧憬の道、また、過去への郷愁を誘う道にもなった。・・・・」と紹介している。繊細な緑青の濃淡で描かれた夏草の中に、一筋の道が茜色を帯びた空の果てに伸びているそれだけの絵である。何故これだけの強い印象を見る者に与えるのだろうか。
数年前に俳句の兼題として「青芒」が与えられ苦しんでいた時、ふっとこの魁夷の「道」が頭に浮かんだ。そして、以前にこのBlogでも紹介した
一筋の魁夷の道や青芒
なる一句を作った。東山魁夷はこの「道」の紹介文の最後を、「・・・やはりその道は明るい烈しい陽に照らされた道でも、陰惨な暗い影に包まれた道でもなく、早朝の薄明の中に息づき、坦々として、在るがままに在る、一筋の道であった。」と結んでいる。
2009年8月17日 記>級会消息
いつも、何気なく使っている「道」という字の成り立ちを教えてもらって、有難う御座います。「道」からはじまったこのエッセイは、実に素晴らしい! 早朝の爽やかな一陣の風に驚かされました。
コメント by 武田充司 — 2009年8月17日 @ 08:12