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  • 終戦記念日に関連して/沢辺栄一@クラス1955

     最近、作家阿川弘之の本で「高木惣吉少将と言ったら、皆さんお分かりか。分からないようなら、君達恩知らずだよ」と言う文に出会った。

     恥ずかしながら聞いた事のあるような名前であったが、実際に何をやった人か知らなかった。「彼がいなかったら、また、彼の命がけの努力が無かったら、我々世代の何10%が生き残れたか分からない。フランスなら公園のマロニエの木陰に、[救国の功臣高木海軍少将]の胸像か美しいレリーフぐらい飾られていても、少しもおかしくない」とのことであった。そこで自分なりに調査した。
     
     高木惣吉は明治26年熊本県球磨川のほとり人吉に生まれた。高等小学校卒業後、家が貧しかったので鉄道建設会社の雇員、アメリカ留学の夢を抱いて勉学のため上京し、独学と通信講座により優秀な成績で試験を通ったが、アメリカ留学生を募集した会社の欺瞞が発覚し、夢は消えた。製本所に勤務した後、東京大学教授の書生として住み込み、その先生の斡旋で東京物理学校の夜学に通う事ができた。1年半の通学の後、中学校を経ず、官費の海軍兵学校に合格、卒業後、各鎮守府、各艦勤務後、海軍大学に入り、首席で卒業した。その後、フランス駐在武官、ロンドン軍縮会議事務、海軍大臣秘書官を経て、病気がちであったため海軍省、海軍大学の勤務になった。昭和15年近衛内閣の新体制運動にかかわり、軍務局長代理を務める。その間、彼のブレインとして思想、外交、政治、財政の識者との交流を持つ。これらの識者の内には西田幾多郎、田辺元、高坂正顕、和辻哲郎、谷川徹三等の錚々たる哲学者や藤山愛一郎なども含くまれていた。これらのブレインの考えを受け、三国同盟に反対し、この同盟締結以後、アメリカの日米開戦の準備のための軍備拡張が急速に進み、その力の差から日米開戦に反対した。大戦中は舞鶴鎮守府参謀長、海軍省教育局長、海軍大学教頭を勤めた。開戦前、「世界のトップリーダーはルーズベルトにしろ、チャーチルにしろ、誰にしろ、背後に哲学と思想を持っている。日本の指導者にはそれがない。ただ神がかりの独善主義を振り回すだけである」と嘆いた。 
     
     昭和19年に入って東条内閣では到底この難局を乗り切る事ができない、海軍としても大臣、総長の更迭を岡田大将に提案したが受け入れられなかった。また、東条首相の暗殺計画を腹心数人と立て、担当者とその役割、日時まで決めていたが、一方で高松宮や岡田大将への首相更迭の必要性の根回しを進めていた結果、内閣総辞職となり、暗殺計画は実行されなかった。
     
     8月になって米内海軍大臣の命だと言う事で井上次官から「戦争終結の研究をしてほしい」との蜜命を受け、病気休養という名目で周囲の目を偽装し、軍令部出仕海軍大学研究部員の肩書きで難事に当った。戦局はサイパン玉砕に至っていた。重臣はじめ秘密の守れる人々に内外の情勢、戦局の危機を説明したり、連合国側の情報、対独処理の詳細な研究、戦争終結方法の方針を次官と共に立案し、戦後の再建の基盤も探った。

     大臣、次官の意を体して黒子の形で重臣、有力者の相互連絡に当った。昭和20年5月に「研究対策」、6月に「時局収拾対策」の意見を米内大臣に提出し、沖縄戦後早急に和平に移るべき事、その際、陸軍への対策、対日講和条件の予測等を提案していた。戦いは負けているのに五分五分であるとし、神国であるから負ける筈はないと、防備も十分していない海岸線で、あくまでも本土決戦を主張する陸軍と、それに引きずられた

     海軍中堅の行動を如何に変えさせるか、必死の行動であった。また、ソ連を介しての戦争終結交渉に反対し、アメリカと直接交渉すべしと考え、アメリカからの海軍への直接の打診があったチャンスを生かす方向を考えていたが、海軍幹部が動かず、折角のチャンスを逃した。原子爆弾が落とされ最終段階になっても、陸軍は本土決戦を主張していたが、御前会議で天皇の決断でしか陸軍を押さえることはできないと判断し、鈴木首相に戦争続行と終結との比を少なくとも同比率に持っていくように裏で依頼した。(天皇の決断は同比率でのみ実施されるので、出席者の多数決で決まったものは天皇でも、その結果をひっくり返す事はできないとのことである。)平沼大臣の意見が明確でなかったので鈴木首相がとぼけて3対3の意見対立と見なし天皇に判断を求め、戦争の即時終結の決断を得たのであった。本土決戦を叫ぶ軍人が多かった中で戦争終結の結論が得られたのは高木惣吉の努力のお陰であった。
     戦争が二月に終わっていれば浅草にあった我家は焼けずに済んだし、四月に終われば沖縄戦も無く、ソ連の参入、原子爆弾の投下もなかった筈であったが、非常に厳しい状況の中で戦争終結が八月まで掛かってしまったと言う事であった。また、本土決戦を行っていれば、沖縄で行われたような集団自決が次々と行われ、一億玉砕の戦い、さらなる原子爆弾の投下、ソ連を含めた連合国の日本の分割占領、統治等が起こり、今日の日本は無かったであろう。高木惣吉少将にはどんなに感謝してもしきれない。かれは昭和54年7月に享年85歳で亡くなった。
     
     戦後、高木惣吉は色々な文章や言葉を残しているが、そのいくつかを記しておきたい。
    「不幸にして興奮しがちな戦時の雰囲気の中だと、分別のある意見というものは大概臆病と間違えられ、評判が悪い。[世界大戦史]を書いたイギリスのリッデル・ハートが[戦争の熱狂の中では世論というものは多くの場合極端な手段を求めて、国民がどんな運命に落ちるかということは余り心配しない]と書いている・・・」
    「独立の国家がその存立の最後の保証として頼むのはけっして紙に書かれた法律や憲法ではなく、強制力の不安定な国際間の協定でもなく、しょせん実行力の行使、警察機構と国防機構の二つである」
    「侵略国が攻撃のために支払う損害がその獲得し得る利益より大きいと思わせるに足る抵抗力を一国が保持するときは中立の維持が可能である」
    「国際関係においても、無条件降伏というものは国民のすべてが、奴隷か娼婦と化するばかりか、その民族の歴史までも書き替えられ、価値のすべてが逆転する可能性をはらむ」
    彼が戦争の真実を伝えるために歴史書を書いた真意を知らない朝日新聞の批判に対し
    「戦争になったのも戦争に負けたのも、その張本人はこの低い哀れな民度だという実感がひしひしと胸を締め付ける」と記している。

     この最後に上げた言葉はマスコミに振り回される現在に対しても当てはまり、自分自身の民度、品格を高め、情勢判断力を養って行きたいと思う。      (2009.8.4)

    2 Comments »
    1. 私は高木惣吉少将のような立派な方の存在を全く知りませんでした。
      沢辺さんは、どのようなきっかけで知ったのでしょうか。毎日見るテレビや新聞には、うんざりする程情報が溢れていますが、重要な情報に気付かないのが不思議です。高木少将の最後の言葉が身に浸みます。
      沢辺さんのお宅は空襲で焼失されて大変な経験をされたことでしょう。岡山も6月29日の空襲で多くの友人の家は焼失しました。幸い弘西小学校の北側だけ焼け残ったので、我が家は助かりましたが、昼頃小学校へ行って驚愕しました。運動場は死体焼場になり、3階建ての教室は重傷者で溢れ、野戦病院でした。この時、初めて東京から疎開して来ていた友人が、日本は勝てないと言っていた意味が判りました。しかし無条件降伏すること等想像すらできず奇妙な心境でした。

      コメント by 大橋康隆 — 2009年8月10日 @ 16:52

    2. 特にきっかけは無く私の兄から聞いたのです。私の兄は終戦時海軍だったので阿川弘之の「海軍こぼれ話」(光文社文庫)のなかの一文を読んで知ったようで、私もそれを読んで、詳しく知りたいと思い、高木惣吉少将の伝記を読んだまでです。高木惣吉自身も自伝に相当するものも書いておりますが、私は平瀬努著「高木惣吉少将正伝」(光人社)を読みました。戦後、嫌われている軍人の中に特に中将、少将という位の人に立派な人がいたのではないかと思います。私も知らなかったので御参考にと思いブログに投稿しました。

      コメント by 沢辺栄一 — 2009年8月11日 @ 20:50

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