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  • アインシュタイン博士の足跡を辿りながら考える事/新田義雄@クラス1955

     7月に皆既日食、8月に原子爆弾の日と並ぶと、純科学的には、アインシュタイン博士の相対性理論が頭に浮かぶ人も多いことでしょう。

     簡単に言えば、1905年に発表された特殊相対性理論が原子爆弾の基の原理となり、更に拡張して1915/16年に発表された一般相対性理論が、1919年の皆既日食を、ブラジルとギニアで観測し、理論の正当性が確かめられたという事です。(厳密に言いますと、1916年当時のいわゆるニュートン力学では解決できなかった水星の近日点の摂動を、アインシュタイン自身が出来たばかりの一般相対性理論を用いて、きれいに証明しましたが、学会では認められなかったようです。)
     
     即ち、理論があまりにも壮大過ぎて、当時の実験設備では検証のしようがなく、もし、太陽の大きな質量で時空間が歪むと言うのならば、それに沿って走る光も曲がるわけで、皆既日食の時には太陽の縁の陰にある星の光が曲げられて地球上から観測できるはずであるとの想定から観測が行われ、その星が観測できた事により、一般相対性理論の正当性が確かめられたということです。
     彼は、当然ノーベル物理学賞を授与されたわけですが、なんと一般相対性理論ではなく、1905年に発表された光量子理論にでありました。この時彼はプロシャ・アカデミー会員となりベルリンに移住していましたが、ユダヤに対する圧力をノーベル賞委員会が感じ、政治的配慮の受賞となったようです。ノーベル賞という純科学的な賞の決定が、政治的に左右されたという事は、まことに残念な事で、あってはならないことですが、それはそれとして、これがダメならこっちでノーベル賞を授けようという論文があるのに驚かされます。
     
     彼は、1900年にチューリッヒ工科大学を卒業しましたが、物理の成績が悪く、(勝手なことをやるので、教授に睨まれていたようです。)助手に残れず、チューリッヒ特許局の3等審議官として就職しました。審議官としての仕事をしながら、1905年に、先ず ブラウン運動の理論 2ヵ月後に 光量子仮説 更に2ヵ月後に 特殊相対性理論 を発表したようですが、一方で生活のための仕事をフルタイムしながら、相互に殆ど関係しない3論文を書き、そのどれもが立派な論文であり、光量子仮説はノーベル賞にも値したという事には、ただただ感嘆し、その天才ぶりに驚くばかりです。
     このように書くと、さもアインシュタイン博士のことをよく調べているように見えますが全く違い、単に相対性理論を発表した物理学者という程度の知識でした。しかし、敗戦後の学生として、原子爆弾の悲惨さを見て、その上、報復を恐れ原子力の研究が禁止された中に、皮肉にも日本最初のノーベル賞が、湯川博士の「中間子理論」に授けられた事もあり、御多分に漏れず原子物理学に通り一遍の関心は持っておりました。
     寧ろ上っ面しか知らないものですからアインシュタイン博士は、相対性理論の過去の栄光にどっぷり浸かって、それ以後何十年も、統一場理論とかをこねくり回してなんの成果も挙げない最も悪い非生産的な物理学者の一人だとさえ思って良い印象は持っていませんでした。1985年、たまたま休日にチューリッヒを訪れる機会があり、チューリッヒ湖近くを歩いていたら、「アインシュシュタイン博士の家」という矢印がありましたが、全く無視しておりました。
     その考えをがらりと変えたのは、江崎玲於奈博士の講演を聞いてからでした。江崎さんは、ご承知のように三高、東大物理を卒業後、神戸工業に入社し、その後ソニーに転社、その時のトンネルダイオードの発明で、1973年度のノーベル賞を受賞し、当時はIBMの研究所に居りました。神戸工業(現在の富士通テン)にいたという事で、ノーベル賞受賞のお祝いを兼ねて、富士電機の幹部に講演を御願いしました。テーマは「日本の教育」だったと記憶しています。要旨は「日本は、教育の普及でここまで発展したが、これ以上の発展をして世界をリードするようになるためには、アインシュタイン博士の様なずば抜けた天才を見出し育てる事が最も重要である。」という事でした。この考え方は、江崎さんのそれ以後教育者としても一貫した考え方の様です。更に次のような面白い事を言いました。即ち、「アインシュタイン博士は、日本の大学共通一次試験にはとても合格しませんよ。ニュートンも同じです。」と言ったので皆で大笑いしました。(ニュートンも調べてみましたら、当時としては破格のニュートン力学をまとめた一方で、錬金術にのめりこんでいたというような奇行の持主だったようです。)これは大変大きな意味を持っていると思います。即ち、共通一次試験には合格しなくとも、世界を揺り動かしたではないか、世界を変えたではないか、という事です。(私は、これにベートーヴェンを加えたいと思います、余計な事ですが、)
     更に、相対性理論発表後、何十年も成果をあげないのはどうした事かという質問に対して、江崎さんは、「ああ、あれは彼の信仰(ユダヤ教)のせいですよ、絶対にして唯一なる神が、この世を造った以上、ビッグバン直後に現れた四つの力(重力、電磁力、強い相互力、弱い相互力)は、一つに帰すべきであるという信念で、統一場理論を何十年も研究していたのですよ。」と言いました。私はそれを聞いた時、ショックともいえる大きな驚きを感じました。即ち、自分の信仰、信念に基づいて研究の方針を決めて突き進んでいく姿に畏敬の念を覚えると同時に、過去の栄光にどっぷり浸かってと考えていた自分が恥ずかしくなりました。それ以後、アインシュタイン博士に対する見方をがらりと変えました。
     1992年ごろだったと思います。ニュージャージー州にある現地法人の製造会社の祝典に招かれた際、半日時間が空いたので、アインシュタイン博士がいたプリンストン大学を訪問しました。アインシュタイン博士は、ナチスの迫害を避け1933年にアメリカに渡り、プリンストン大学内の高等研究所の教授として迎えられ、1955年に没するまでそこに留まりました。ここは、戦後直ぐ湯川博士、矢野健太郎先生(我々には懐かしい名前ですね)、南部陽一郎先生、伊藤清先生など、日本を代表する物理、数学特にリーマン幾何学の先生方が招かれ、アインシュタイン博士の薫陶を受けると同時に研究に参画した事でも知られております。
     さて、正面の門に着き、そこにいた学生に、「アインシュタイン博士がいたところはどこですか、」と尋ねましたが、全く知らず、アインシュタイン博士がいたことも知らなかったようでした。(アメリカではノーベル賞受賞者はあまり多いので目立ちませんが、それでもアインシュタイン博士は別格だと思いますが。)門の守衛にも同じように質問しましたが、「アインシュタイン博士がいたかどうかは知らないが、物理学教室はあそこですよ。」と教えてくれました。物理学教室は階段教室になっており、物音を聞いて、隣から白衣を着た老年の助手の人が出てきて、博士はここに座って発表を聞いていたと真ん中の一番前の席を示すなど説明をして写真をコピーしてくれました。「あなたは、実際に博士を見ていますか。」と尋ねたら「私はそんな年寄りではない。」と叱られました。廊下に、各国の数学者や物理学者の名前と業績を書いたものが貼ってありましたが、日本では、江戸時代の数学家、関孝和が記載されていたのが印象的でありました。
     帰り際に、学校の直ぐ横の住んでいた家を教えてくれましたので外から眺めてきました。(半日、自分の専門外である理論物理学のミーハー族をやってきました。)
     
     さて、日本をこれ以上発展させるためにはどうしたらよいかは今後の大きな課題であり、私なりに考えをまとめてみた事もあります。即ち、従来のように欧米で発明されたものを、改良・発展するだけでなく(勿論これは今後とも重視しても軽視するものではありませんが)、日本独自の理論・発明により世界をリードする事が日本をこれ以上発展させるのに求められているのではないでしょうか。
     そのためには、なんと言っても先ず科学大好き少年少女を増やして底辺を広げることが最重要であります。その一つとして、斎藤兄が国立科学博物館でガイドのヴォランテイアをしていることは極めて重要な意義を持つものと高く評価しています。
     更に全体のレベルを上げながら、ずば抜けた天才を探し育てるにはどうしたらよいか、多くの必要な事が考えられますが、その一つとして、特に日本の会社のように管理の厳しい中で天才を見出し、それを更に伸ばす困難さをどう解決するかも今後の大きな課題であろうと考えています。
     賢明な皆さんにも、日本の科学・技術のあり方を、是非考えていただくことを心から期待します。
                                     2009年7月28日 

    1件のコメント »
    1.  アインシュタインのお話し興味深く、そしてガリレオの生涯と重ね合わせながら読みました。ガリレオの話は昨年8月にこの欄でご紹介し大曲さんに補足をしていただきました。
       彼は1610年に「星界の報告」を出版し、ついで1630年に3人の架空の人物の会話によってコペルニクス説に肩入れをした「天文対話」を完成。この書によって1633年に宗教裁判を受けて異端誓絶の判決を受けました。そしてその罪状がパウロ二世の主導で解かれ、ガリレオの天動説が認められたのは1992年、今からたった17年前のことでした。その間359年!
       ガリレオの死んだ年にニュートンが生れています。アインシュタインもユダヤ人迫害の中で苦労をしたでしょう。天才はそうした苦難を受けなければならない運命なのでしょうか。
       新田兄は過日上野で私を激励してくださいました。お褒めのことばは恐縮です。何時まで動けるかわかりませんが、もうしばらく子供たちとの対話を楽しんでみたいと思っています。夏休みの今、沢山の小、中、高校生が宿題を満たすために科博にやってきて勉強しています。このなかにも未来のアインシュタインが何人かいるかもしれませんネ。

      コメント by サイトウ — 2009年8月10日 @ 22:33

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