• 最近の記事

  • Multi-Language

  • 零戦の残したもの/斎藤嘉博@クラス1955

    スミソニアン博物館群の中でも一際大きな宇宙航空博物館のギャラリー205に“零戦”の展示があります。

     この一角は太平洋戦争を記念するコーナーで、私たちに深く記憶されているP-51マスタングやメッサーシュミット、B-26なども展示されています。零戦のところには“noted for its maneuverability and speed”とコメントが書かれ、さらに
    “Light and maneuverable, the Japanese Mitsubishi A6M5 Zero was a formidable opponent in the hands of a skilled pilot. Against later, more powerful American fighters, however, the Zero lost ground and became an easy target by the end of the war. 
     この欄で名訳についての楽しい論争がされている折でもありますので原文のままご紹介します。はじめはニガイ顔をしていたヤンキーが最後には勝ち誇っている様子が目に浮かぶようです。そして敗戦の日から間もなく64年が巡ってきます。
     科学博物館に展示されている零戦は軍歌にも歌われたラバウル航空隊に所属していてブログ零戦.jpgいました。1944年、基地で故障あるいは破損した数機の21型零戦の部品を集めて偵察用2座の型に改造されたものです。工具も思いのままにならない前線での作業は想像に絶したものだろうと思いますが、この機もやがて敗戦間近の1945年に撃墜され、ラバウルの海の藻屑となるのです。1972年に海中で発見されて引き上げられ、修復展示されています。搭乗者は吉沢徳重上飛曹と記録されていますが年齢は不詳。“遼ちゃん”と同年ぐらいの年頃の将来性ある若者であったのではないかと想うと心が痛みます。
     零戦はこの博物館に現在展示されているものとしては多分唯一の戦争記念品です。私は戦時中、学徒動員で陸軍機の「飛燕」製作に関わっていました。零戦を見ると戦争と切り離しては考えられないのですが、ここでの展示は戦後の日本が示したすばらしいものつくりの技術へのマイルストーンといった位置づけです。この戦闘機の売り物である操縦性能の良さは超々ジュラルミンの開発、空気抵抗の軽減あるいは徹底的な無駄の排除などによる成果でした。その自重は1.7t、同じ程度の戦闘能力を持つ米国のF4Fと比較して約6割の重さなのです。
     零ってなぜ? という質問をよく受けます。この戦闘機が登録されたのが昭和15年、皇紀2600年だからと説明すると「コウキって?」。そこで神武天皇以来、皇統はスイゼイ、アンネイ、イトクと続いて2600年と。太平洋戦争ももう遠い昔になってその辛さを体験している方も少なくなりました。それもその筈今の小学生にとって太平洋戦争は60年も前のこと。私たちが小学校時代に知った日露戦争はたった35年昔の話だったのですから。この長い間空襲警報なしに、お腹の空かない平和な時代をすごせたというのは素晴らしいことだったと思います。
     科学技術の開発、進展はそれ自体歓迎すべきことですが、その裏にはかならずマイナスの面が伴います。ノーベルがいくら反省してもその弊害はけっしてなくなりません。技術は人間の心と行動を含めて、社会システムのなかでどのように使われていくのか、そうした考察を含めた研究と開発が必要と思うのです。
     なお零戦は東京では靖国神社の遊就館、また河口湖自動車博物館にも展示されています。

    3 Comments »
    1. 齋藤様 私は今でも科学博物館に年に3~5回行っていますが、(2回は墓参りの後、他は展覧会に行った後なので、集中してみているわけではありませんが、)いつも最後にひとりでに足が零戦のところに向いて、ひとしきり眺めて帰ります。
       斎藤さんが言われましたように、戦争こそあってはならないことですが、戦争時は、他から情報が入らず、自力の技術力、生産力が試される機会です。
       私は、機械の設計者の1人として零戦を調べますと、実にバランスの取れた設計と感心しています。
       最初の12型(A6M2)は、950HPのエンジンで、速度、運動性、安定性、20mm機関砲さらに長大な航続力の仕様をよくも満たしたものだとその設計の見事さに頭が下がります。(勿論そのために、防弾性、急降下時の強度、生産性等が犠牲になっています。)
       しかし極端な事をいうと、大戦中は、零戦に始まって零戦で終ったといってもよく、(勿論この間に多くの機種が生産されたが、主流にはなれなかった。)アメリカのように、開戦時の垢抜けしない機種が、戦争中に見違えるように進歩したのと比べると日本の自力での開発力の限界を感じざるをえません。
       なお、偵察機用に復座に改造されているのも大変珍しいですが、現地ラバウルで作業したと知り驚きました。(日本で改造したとばかり思っていました。)
       私もスミソニアンで見ましたが、私の知っているアメリカの技術者も零戦を非常に誉めていました。
       また、科博に行きましたら見てきます。

      コメント by 新田義雄 — 2009年8月3日 @ 21:01

    2. 科学技術の開発・進展は、常に光と影のあることを心すべきとの斉藤さんのご意見には大賛成です。
      零戦について思い出しましたが、実物を見学したのは、40年程前、衛星通信の地上局の仕事でワシントンに出張した際、休日にスミソニアン博物館を訪れた時でした。想像以上に小型で軽量に見えたので驚きました。日本でも科学博物館に展示されているのを知り、再びじっくりと見学に行きたいと思います。
      零戦と言えば、高校3年生の時の担任で、物理を教えていた先生が、戦時中に開発に従事されておられました。敗戦後は、郷里で教師をされていましたが、その後、大分大学の航空工学科で教授をされました。先生もスミソニアン博物館を訪れ、零戦を感慨深く眺めた話を、クラス会で話されました。来る9月中旬に、数年振りのクラス会が岡山で開催されるので、再会を楽しみにしています。
      ラバウルからは、親戚が九死に一生を得て帰国したのですが、程なく急逝したので、ラバウルの貴重な体験を聞く機会を失い、残念です。

      コメント by 大橋康隆 — 2009年8月3日 @ 22:38

    3. 新田さん、大橋さん、適切な補足を頂きありがとうございました。
      零戦の生産は1万台を超えていて1機種の生産としては例をみない数でした。また防弾性を犠牲にしたことが、よいパイロットの損失につながったことを考えると、しみじみシステムは長期の展望に立った計画が大切だと思うのです。
      大橋さん、岡山で零戦の開発にまつわる面白いお話しを聴かれたらまた教えてください。

      コメント by サイトウ — 2009年8月4日 @ 21:25

    Leave a comment

    コメント投稿後は、管理者の承認まで少しお待ち下さい。また、コメント内容によっては掲載を行わない場合もあります。