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  • 横浜はじめて物語(抄)/大曲恒雄@クラス1955

     今年は横浜開港150周年記念の年であり、それを記念してこの150年間を振り返る出版物が数多く出ている。


     その中の一つ、「東京人」2009/7(都市出版社・右写真)に網倉俊旨氏が「横浜はじめて物語。」と題東京人(1)_edited-1.jpgして発表されている記事には西洋からやってきたハイカラなモノが横浜から日本中に広まって行った経緯が詳細に述べられていて大変興味深い。
     ここでその一部を紹介させてもらうこととしたい。

    (1)交通
    ●慶応3年(1867)10月京浜間で初めて蒸気船が航行した。横浜の鹿島屋亀吉と江戸の松坂屋弥兵衛が就航させた稲川丸は長さ25m、幅6mの小さな船だったが、日本初の定期航路を開いた蒸気船として大きな話題となった。
    ●乗合馬車が初めて登場したのも横浜である。明治2年(1869)2月頃ランガンとジョージが京浜間で乗合馬車の運行を開始、日本人では同年5月に成駒屋が初参入。横浜側の発着所は吉田橋脇、東京側は新橋にあった。
    ●日本で最初の鉄道が横浜~新橋間を走ったのは明治5年(1872)。その2年前に建築師長モレルが来日、彼の指導のもと鉄道敷設工事が始まった。開業当時は1日9往復、所要時間は53分(*1)であった。横浜から新橋まで馬車では4時間かかったらしいから鉄道の速さに人々は驚愕したに違いない。なお最初の横浜駅は現在の桜木町駅にあった。
     (*1)現在、東海道線は横浜~新橋間を22分くらいで走っている。途中で川崎と品川に停車する、開業当初はノンストップだが桜木町~横浜の分だけ距離が長い、などと条件に差はあるが、それにしても137年前の53分は結構速かったと言えよう。

    (2)食べ物
    ●横浜開港によって様々な新しい食べ物も入ってきた。万延元年(1860)、神奈川奉行所がアメリカ麦の種を入手して試作したのが西洋作物導入の始まりである。文久年間(1861-64)には初代イギリス総領事オルコックが本国から持ち込んだ種によってニンジン、芽キャベツ、パセリ、トマトなどの西洋野菜が栽培された。
    ●意外なことに横浜で最初にパンを焼いたのは日本人の内海兵吉であった。万延元年(1860)にフランス軍のコックから手ほどきを受け、日本の小麦粉で焼いたとのこと。
    ●同年春には横浜ホテルで屠牛が行われ、初めて牛肉が食されている。食肉業者の第一号はアイスラー・マンデル商会。
    ●開港直後氷はボストンから輸入されていたが、喜望峰回りで6ヶ月かかったのでビール箱一つ分が3両(*2)もした。1865年5月リズレーが天津氷を輸入し同時にアイスクリームサロンを開業、ここで日本初のアイスクリームが作られた。日本人が販売を始めたのは明治2年(1869)で、当時は「あいすくりん」と呼ばれていた。
     (*2)これが現在の貨幣価値で幾らに相当するのかをインターネットで調べてみた所、日銀金融研究所貨幣博物館のH/Pに「幕末頃の米価から換算して1両がおおよそ現在の3~4千円に相当する」との記事が出ていた。3両で1万円である。地球の裏側から半年がかりではるばる運ばれて来た氷塊が1コ1万円也、高いと見るか、やむを得ないと見るか。 
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    (3)飲み物
    ●日本における牛乳発祥の地も横浜である。最初は精肉を本業とする「牛屋」が搾乳からバターの製造まで行い、牛乳も販売していた。アイスクリームを最初に販売したリズレーは1866年に日本初の牧場を開き牛乳を販売した。英字新聞「ジャパン・タイムズ」の広告には「1瓶25セント」とあり、当時としてはかなり高かった。
    ●横浜開港当初ビールは主にイギリスから輸入されていたが高価で入荷量も不安定だったために地元での醸造販売が始められた。日本におけるビールの発祥については諸説あるが、横浜では明治2年(1869)山手46番にできた「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」が最も早いと言われている。その翌年、天沼に開設された「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」は後に日本人に譲渡され、麒麟麦酒株式会社となった。

    (4)スポーツ
    ●外国人によって日本初の競馬会が開催されたのは万延元年(1860)9月、現在の元町あたりだったと言われている。更に慶応2年(1866)9月根岸に日本最初の近代的競馬場が完成した。現在の根岸森林公園はこの競馬場跡地に作られたものである。
    ●野球の試合が初めて行われたのも横浜である。明治4年(1871)9月、後に横浜公園となる埋め立て地で居留外国人チームと客船コロラド号水夫チームが対戦した。
    ●日本初のテニスクラブは明治9年(1876)に発足した。外国人居留地内の婦人たちによって組織され、当初コートは横浜公園内のクリケットグラウンドを併用した。本格的なテニスコートが設置されたのは明治11年(1878)で、外国人専用公園として開園していた山下公園に5面のコートが作られた。
    ●この他にもボートレース、ヨットレース、射撃、スケート、陸上競技など、居留地に住む外国人が横浜に様々な新しいスポーツを持ち込んだ。

    (5)通信
    ●日本で最初の電信が行われたのは明治2年(1869)8月、横浜灯明台役所と横浜裁判所の間で交わされた官用通信が始まりである。同年9月19日には横浜裁判所内に伝言機役所が設けられ、この日の陽暦にあたる10月23日が電信電話記念日となっている。同年12月上旬には京浜間の架設が終わり、25日から公衆電報の受付を開始した。
    ●電話の発祥も横浜である。グラハム・ベルによって電話が発明された翌年の明治10年(1877)、工部省がベル電話会社の日本代理店である横浜のバビエル商会を通じて電話機を輸入、電信線を利用して横浜の電信分局と本省とのあいだで通話実験を行った。
     一般の電話交換業務が始まったのは明治23年(1890)12月16日で、横浜~東京間及びそれぞれの市内で電話の使用が可能となった。開始時の加入者は東京155人、横浜45人で、電話交換局内には公衆電話も設けられた。
    (6)その他
    ●ファッション・モードの分野では文久3年(1863)英国人ピアソン婦人が横浜居留地にドレスメーカーを開店、これが洋裁業の始まりである。同じ年、最初のテーラーショップ「ラダージ・オエルケ」商会が開業した。文久年間(1861-64)には渡辺善兵衛が日本初のクリーニング店を開業している。
    理容店が誕生したのは元治元年(1864)。横浜ホテルでファーガンスがサロンをオープンしたのが最初と言われている。日本人では外国船に出入りしてハサミの使い方を習得した小倉虎吉や松本定吉らが明治元年(1868)に開業している。明治4年(1871)には断髪例が出され、文明開化の象徴でもある「ザンギリ頭」が横浜から全国に広まっていく。
    ●メディア・出版の分野では、横浜は日本における近代ジャーナリズム発祥の地である。文久元年(1861)11月23日、日本初の本格的な新聞「ジャパン・ヘラルド」が刊行された。外国の新聞を翻訳した最初の邦字新聞が発行されたのは元治元年(1964)6月28日のことである。日本で初めての日刊新聞は明治3年(1870)12月8日横浜活版社から創刊された「横浜毎日新聞」である。
    ロンドン生まれのワーグマンによる風刺雑誌「ジャパン・パンチ」が横浜で創刊されたのは文治2年(1862)の春。ヘボンによる日本初の本格的な和英辞典「和英語林集成」は慶応3年(1867)に出版され、この本の表記が「ヘボン式ローマ字」の基礎となった。

    (7)付け足し
    上記の話で気がつくのは、これらの出来事が横浜開港の後10年くらいの間に集中して起こったということである。まさに文明開化の奔流が一挙に横浜へ押し寄せたというべきかも知れない。開港前僅か100戸足らずの寒村だった横浜村がテンヤワンヤの大騒ぎのうちに近代都市へ向かっての第一歩を踏み出したまさに激動の時代、できることならタイムスリップしてこの頃のヨコハマを歩いてみたい(勿論デジカメを持って)・・・。

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