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  • 江戸の粋(すい)・江戸っ子の粋(いき)/新田義雄@クラス1955

     この様な題をあげると、僕がこの道の研究家か少なくとも非常に関心を持っているものと思われるかもしれないが、実は全く反対で、今までは考えることも無かった。

     しかし生まれ育った所が本所石原町であり、(今の江戸東京博物館のそば)今では歌舞伎か落語にしか出てこないような雰囲気を感じながら育ったこともあり、誰かの言葉にあったように、先が短くなったせいか急にこのようなことを考えるようになった。
     その一環として、今まで見残した事、聞き残したこと、を考えると、本物の 新内流し を見た事が無いのに気がつき(歌舞伎とか寄席では見ているが)、さりとて今では本物を見ることは出来ないが、せめて最も似た雰囲気で見る事が出来ないかを探した結果、深川江戸記念館で江戸の町を再現した所に、決められた日に新内流しの実演をやる事を見つけ、去る1月10日に行き、あまり長い時間ではなかったが、名曲「蘭蝶」の一節も聞き、まさに江戸の粋の一端をすっかり堪能して来た。ちなみに、戦災前の我家には、手巻きの蓄音機に、12吋、10吋のクラシック盤から歌舞伎、長唄、新内など雑多なレコードがあり、大人が時々聞いていたので、邦楽には違和感が全く無かった。ただし僕は、10吋盤のマリー作曲の「金婚式」が大好きで何回も何回も聞き、世の中にこれ以上の素晴らしい曲はないだろうとさえ考えていた。今、自分の金婚式が身近になり、思い起こしながら苦笑いしている。
      出演者  新内剛士(たけし)(人間国宝新内仲三郎の長男で、上野の国立音楽大学邦楽科を卒業、現在研究科在籍中):体躯も堂々としており、美声の持主で、将来の新内を背負って行く人物と見受けられた。  新内仲政(上調子、女性)

     江戸の粋(すい) と言うと、やや高級な人々のもので書画骨董なども入ると思うが、江戸っ子の粋(いき) と言うと、江戸の庶民、町人、特に職人の粋を指すように思い、ここでは、これについて書いてみたいと思う。
     生粋の江戸っ子というのは、両親とも3代続かないと言われないと考えると我家は程遠い。父は、神田の鎌倉河岸生まれであるが、祖父は越後の出であり、(新田義興{義貞の次男}が一時越後に住んだ時があり、新田のかたまりがあったようだ。)到底生粋の江戸っ子とはいえないが、それでも父は、江戸っ子の気風を充分に漂わせていたように思う。それからみると、僕などは、残念ながら粋の正反対の野暮に属している。
     僕の小学校の同級生に、鳶の組頭(何組かは思い出せないが、)の息子がおり、親父さんに似て体も大きく、クラスのやんちゃ坊主だったが、昭和23年に疎開先から帰って、焼け跡に家を建てるとき親父さんと一緒に現れた彼は、立派な組頭を継ぐべく背中一杯の刺青をし、建前の柱の上を身軽に飛び回っていた。
     声もよく彼の木遣りは絶品だった。また梯子のりの稽古も充分にして、1月の出初式の花形だったようだ。これなどは、まさに いなせな若衆 として、江戸っ子の粋のひとつであったであろう。

     総じて 江戸っ子の粋 は現代ではなかなか見られないが、戦後暫くは残っていたように思う。それについて自分なりの考えで挙げてみると、
    ・ 不合理なほど気前がいい。――歌舞伎の世話物、落語の「文七元結」などは好例である。この風潮から腕一本でその日暮らしをすればいいので、宵越しの金は持たないという気風も出たのではないか。
    ・ 不合理なほど正義感が強い。――前例もそうであるし、自分の命がかかってもやる火事場の火の中に立つ鳶の纏などに拍手喝采をするのもその例であろう。
    ・ 不合理なほどお金にこだわらない。――お金にこだわるのは汚いと言う気風があり、決して値切らない。これは江戸の商人にもこの気風があった。(勿論、売り手買い手の信頼感があっての上で)
    ・ 一見気恥ずかしくて見られたくないようで、実は目立ちたい。――羽織の裏地に凝るなどはよい例である。
    ・ 芸事を愛する。――歌舞・音曲を見たり聞いたりする事を好む。
    ・ 喧嘩っ早くてお祭好き
    ・ 早とちりのおっちょこちょい――これはおまけ
    等が考えられる。
     では何故このような気風が生じたのかを考えてみると、これは江戸の地域性に大きく関係していると思う。即ち、江戸は江戸城を中心にして、東に大きく発展したが、江戸城を先ず諸国の大名屋敷が厚く取り巻き、その外にかろうじて神田、日本橋、浅草に町人を主にした江戸庶民が住み、さらに隅田川の向こう側の本所深川に職人を主にした江戸庶民が住んでいた。またこの江戸庶民の地域にも大名関係の馬の面倒を見るものが住み、地名も馬喰町、小伝馬町、厩橋、駒形が残っている事でも判る。
     江戸庶民にとっては、大名や徳川家は外来者で且つ為政者である。しかし外で会えば、越えられない一線の町民と武士の階級関係であり、下手をすれば無礼打ちされても何も文句も言えない立場であった。これを毎日のように頻繁に見せ付けられ、また感じさせられたりするのが、100年、200年と続けば、知らず知らずに諦めと虚無感が表れ、それならその日その日を楽しむ気風や、階級を感じなくて済む歌舞・音曲の場、お祭、はては廓などが賑わったのではないかと考えている。これが長年の間に江戸庶民の文化となり、江戸の粋を生み出す事にも大きく関係していたのではないか。これは、大阪や京都と大きく異なる点である。

     以上、江戸の粋について僕の独断で考えたことを紹介したが、現在の東京について考えてみると、明治維新後150年を経て、階級を意識することは殆ど無くなり、また交通も頻繁となって地域性を保つ事が難しくなり、特に戦後はそれが徹底された今、当然江戸の粋も失われてきて、いまや歌舞伎、落語他の世界か、音曲に残るのみになるのも時代の流れの必然と見るべきであろう。

    1件のコメント »
    1.  江戸の下町文化成立の過程に関する考察と卓見、興味深く読みました。なるほど、そうかも知れないと思いました。
       新内は僕も好きですが、今では、テレビなどでは、めったにやらなくなくなりましたね。昔(と言っても戦前、僕が子供の頃)は、ときどき、ラジオで、三木松(だったか?)の新内流しの話芸を聴いて、分かるはずもないのに、あの妙に艶っぽい語り口に、心引かれていました。今でも、ちゃんとした新内を聴かせる所があることを教えて頂き、有難うございます。

      コメント by 武田充司 — 2009年5月28日 @ 13:14

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