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  • タルノヴォの家並/大橋康隆@クラス1955

    2006年7月29日から8月5日までブルガリアを旅行した。


    ブルガリアは相撲の琴欧州で日本人にも馴染み深くなった。8月3日にヴェリコ・タルノヴォ(Veliko Tarnovo)に到着して午前中だけ見物した。琴欧州の故郷はこの町の近くで、日本のツアーでは訪問して両親と記念写真を撮ってもらえるそうである。この日は37℃の猛暑で、昼間は外出しないようにTVから注意が出ており残念だった。しかしこの町の崖の上に建設された家並は、素晴らしい眺めだ。
    タルノヴォの家並a.jpg
    帰国後8号の油絵を描き、10月にNEC OB パレット会の展示会に出展し、更に翌年6月には100号に拡大して、新構造展に出展した。夕方少し気温が下がったので、ツァレヴェッツの丘へ、ガイドさん、ドライバー、と家内の4人で頂上の教会まで登ったが、ここからの眺めは素晴らしかった。写真では近くに見えるが、登りはジグザグ・コースで大回りしたが高温でヘトヘトになり、帰りは薄暗くなったので石段の多い近道をハラハラしながら降りた。ツァレヴェッツの丘a.jpg
    定年後の海外旅行は個人旅行であったが、今回は列車の切符を日本で入手出来なかったので、現地のツアーに参加することにした。7月29日の昼、ウイーンからソフィア空港に到着したら、22才の女性ガイドさんと、22才のIT工学専攻の大学生のドライバーが出迎えてくれ、空港と市内の中間にある小さなホテルに案内された。この時、暑い夏に旅行する外国人は我々だけであることを知らされた。ブルガリアを訪れるには、バラ祭りが開催される5月~6月が良いことは知っていたが、家内が未だ勤めていたので二人で旅行するには、夏休みに限定された。しかし今回は貸切りワゴン車で旅行する幸運に恵まれた。
    ガイドさんは4年目だそうで、達者な英語で熱心に寺院や遺跡の説明だけでなく、ブルガリアの歴史、宗教や、EU加盟前なので秋にはイタリアでEU加盟後についてのセミナーに参加すること等色々な話をしてくれた。ブルガリア語のアルファベットはロシア語より2つ少ないだけで、後は同じであることも学んだ。ドライバーの大学生もNECのことを知っており、帰国した時には既にメールが着信していた。2人の話を聞いていると、祖国復興への熱い思いが満ちていて、我々の若い頃が懐かしく思い出された。日本のツアーと異なり、
    ホテルは豪華ではないが清潔で快適であった。食事もグルメ向きでなく、老人には健康的で、朝食のブルガリア・ヨーグルトは勿論、黒パンに蜂蜜が私には最高であった。また野菜が新鮮かつ豊富で、私達の為に魚料理を多く注文してくれた。ブルガリアの後、ルーマニアを1週間旅行して、15日間合計1人当たり17万8千円でペイするのかと心配したが、高級ホテルを使用しないので、大丈夫らしい。我々にとっては、日本のツアーでは難しい田舎や山の中を旅行できて大満足であった。
    ブルガリア旅行のルートや珍しい田舎の風景等は油絵と共に次回報告したい。

    2 Comments »
    1.  いつもながら、心休まる美しい絵には、いたく感心しています。僕も、ブルガリアには一度だけ行ったことがあります。1995年の秋でしたが、無粋な原子力国際支援のセミナーのために、ソフィアに4,5日滞在したのですが、半日だけソフィアの町を観光しただけで、あとはホテルの会議室でした。
       ただ、女房の方は、毎日、自由に観光三昧で、リラの僧院にも行っていました。あの当時は、ブルガリアも、リトアニアと同じように、旧ソ連体制から解放されて間もなかったので、かなり貧しく、ひどい状況でしたが、街角に、レーニンの胸像が残されているのが印象的でした。リトアニアでは、一夜にして、ああいうものは撤去されてしまったので、リトアニアから行った僕には、両国の歴史的背景の違いをはっきりと意識させられました。

      コメント by 武田充司 — 2009年4月7日 @ 06:21

    2. リトアニアとブルガリアの両国を体験された武田さんが、歴史的背景の違いを明確に意識されたのは、流石だと思います。私はブルガリアしか知りませんが、ガイドさんがEU加盟で解放感を満喫していたのとは裏腹に、抑圧していたロシアに対して意外にも親近感を持っているのに驚きました。それは、バラの谷で有名なカザンラクからシブカ峠を越えてタルノヴォに到着したので判明しました。
      シブカ峠の頂上には、高さ32メートルの巨大な「自由の碑」が建っています。1877~78年にロシア・ブルガリア連合軍が激戦の末、トルコ軍に勝ち、オスマン朝支配から独立しました。この近くに金色の屋根のシブカ僧院がありますが、この戦争で戦死したロシア兵を悼んで建てられたそうです。その話を聞いた時、学生時代にロシア民謡として「ここは遠きブルガリア、ドナウの彼方」という歌を聞いた記憶が蘇りました。故郷を離れて出征した兵士達の望郷の歌ではないかと思います。ブルガリアは日独伊3国同盟側に加担したため、戦後に共産党の支配を受けることになりました。シブカ峠の写真は、油絵と共に次回掲載したいと思っています。

      コメント by 大橋康隆 — 2009年4月8日 @ 21:21

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