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  • 上京前後の思い出/大橋康隆@クラス1955

      昭和20年4月に私は旧制岡山第一中学校に入学した。


    戦争末期で、かつ学区制であったので、特に受験勉強の記憶は無い。中学で初めての試験を迎える前日、最後にZOOという英単語を覚えて寝たが、6月29日の未明に空襲があり、岡山市は大半が焼野原になった。それから2年間は焼け跡の整理作業を手伝いながら、公会堂や青空学校等で細々と授業を受けた。3年生になって、バラックの校舎が完成し、3年分を1年間で学習した。4年生になる時、学制改革により、そのまま岡山朝日高校の1年生になったが、配布された教科書を見ると既に中学で習っていた内容で、2年生まで特に勉強の必要は無かった。
      3年生になる時、岡山第二女学校と合併し、男女共学になった。先生方は新しい環境で目標の定まらない生徒を大変心配し、進路未定の生徒を一人一人職員室に呼ばれた。私は1年生の時に父が亡くなり、進学を諦めていたが、継ぐべき家業も無かった。「君も大学を受けて見ろ。だが岡山の大学では駄目だ。東京の大学に入れば誰かに面倒を見てもらえるかもしれないぞ。」と説得された。帰宅してから、隣の家に下宿していた旧制第六高等学校の先輩を訪ねて相談したところ、明快に1年間の受験勉強で合格する方法を教えて下さった。「先ず計画を立てて、その半分以上実行することが出来たら大丈夫だ。」と言われた。
      この様な急ごしらえで上京したが、先ず駒場へ書類を提出する際、渋谷駅で困った。当時の岡山では、乗り換えはホームの反対側と思っていたが、ホームが幾つもあった。探してみても井の頭線がない。まさか離れた駅があるとは想像もしていなかったので、数人の人に尋ねたが、速く話すので外国語を聞いているようで、なかなか判らなかった。試験場は本郷だったので、母が小学生の時の先生の家(祖師谷)に泊めて頂いた。試験場では同じ大橋姓の受験生が10人位いたので驚いた。幸い、隣の受験生が話しかけてくれ「君も早生まれだね。僕もそうだが、京城から引き揚げてきたので年上だ。」と言われ、気分が落ち着いた。駒場でこの方も合格したことを発見した時は本当に嬉しかった。
      受験終了後、岡山の友人と下駄を履いて銀座を見物した。写真屋が勝手に写真を撮り、記念に買うように勧めたが、買えなかった。その写真には、未だ一部に戦災の傷跡も残っていた筈で貴重なものだが、掲載できなくて残念である。不合格ならば二度と東京に来ることも無いと思っていたので、スピーカーから流れる「銀座カンカン娘」の唄が妙に哀調を帯びて聞こえてきた。合格通知がきたので、母は北京から引き揚げて相模原に住んでいた叔母に手紙を書き、私は駒場に通っていた2年間預かってもらうことになった。駒場寮へ入れなかったのは残念であったが、贅沢は言えない。理科一類2B組では、独語は既習の1A組と合同授業の場合があり、アルファベットもおぼつかないのに、いきなりドン・ジュアンの小説を読まされた。総ての単語を辞書で引く羽目になり、学力差を見せ付けられて閉口した。ここ数年理科一類2Bクラス会を復活し、昨年は電気科が2回目の幹事となり、駒場で開催した。

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