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  • アルゼンチンの思い出/大橋康隆@クラス1955

     アルゼンチンを初めて訪れたのは、1968年10月1日で、Mar del Plata で開催されたCCITT(国際電信電話諮問委員会)の総会に出席した。


    前任者の杉崎真先輩と交代して間も無くで、富士通の遠藤興一先輩に同行した。 

     JALでニューヨークまで行き、PAMに乗り換えてブエノスアイレスの国際空港に到着した。ここで市内地図を購入し、国内空港に向かったが、そろそろ公園がある筈が、歩いても歩いても現れない。道に迷ったかと地図を改めて眺めて、太陽が北半球と逆方向にあることに気付き、南半球に来たことを実感した。大急ぎで反対方向に歩いて行くと、公園が現れ、国内空港が見えてきた。  ブエノスアイレス(大橋).jpg
       探し当てた公園

    その時ほっとして撮影した公園の写真を掲載します。
     Mar del Plata までは約一時間、小型航空機で行ったがが、気流が悪くて山の上で左翼から滑り落ちるようで、生きた心地がしなかった。米国の代表は、搭乗するまでは賑やかに喋っていたが、搭乗後はすっかり沈黙してしまい、伊国の代表は小型機に慣れているのか、平気で喋り続けていた。到着すると、米国人は、suicide road だと聞いていたがその通りだ、と言って元気になった。
     帰国時は、大部分の出席者が、数時間かけて列車でブエノスアイレスまで行ったが、私は予定が厳しかったので、再び小型機に乗った。幸い気流が良くて助かった。 

     国際会議場は海岸沿いにあったが、カジノと隣り合わせで、大きな建物は2つだけであった。海岸には大勢の子供が遊んでいて、日本人は珍しいのか集まってきて、「力道山」「海老原」と叫んだ。その時の子供達の写真も掲載します。  マルデルプラタ(大橋).jpg 
       海岸の子供達

     未確認情報として、戦艦三笠ともう1隻は、アルゼンチンが購入予定であったが、日本に譲ったので、日本海海戦に勝ったのだという話も聞いた。そのため日本人には好意的であった。
     当地はスペイン語で、私が覚えた唯一の言葉は部屋番号の308であった。レストランでは、日本語で葡萄酒の赤、と白などを教えたら、ボーイさんがすぐ覚えて、日本語のプロフェッソールだと尊敬された。米国人は英語が世界中で通用すると思っていたらしいが、通じるのは1/3しかないので悔しがっていた。
     週末に海岸で少し英語の出来る3人の女子大生と知り合い、翌日その一人が両親と町の案内をしてくれた。以後長年クリスマスカードの交換をしていたが、最近、音信不通となり残念である。
     1977年8月再びブエノスアイレスを訪れ講演をしたが、これが契機となり1980年に当時としては世界最大規模の光デジタル網を受注し、1982年に完成して近代化に貢献出来たことに、不思議な縁を感じている。

    2 Comments »
    1.  北米に行かれた方は多いでしょうが、南米は案外行く機会が有りません。私もブラジルに二三度行った位で、アルゼンチンは知りません。
       リオデジャネイロに行くのに、ロサンジェルスでVarigに乗り換え、ペルーのリマに降りてからアンデス山脈を越えたのですが、国際線のDC-3が振動試験機にかけられているくらい振動しました。機体のねじれが破壊寸前のように感じられました。飛行機で怖かったのはこの時だけです。
       

      コメント by 寺山 進 — 2009年1月26日 @ 16:26

    2. 南米の話は懐かしいです。ただ私もブラジル迄です。1970には東京からリオへVarig直行便がありました。機内泊2回の長旅です。
      羽田22:30発ロサンゼルスに夕方着いて翌日早朝リマ着、そこからアンデスを越えてボリビアを横切り午後リオに着きました。アンデスの山上に広大な湖が見えて驚いたがチチカカ湖だと思います。この時の器材はB707で天候も良く余り揺れませんでした。

      コメント by 小林 凱 — 2009年1月28日 @ 21:46

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