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  • 我々の入学式と、アメリカ大統領選挙/新田義雄@クラス1955

     突飛な題名で、驚いた人も多いことでしょう。或いは、落語の三題話ならぬ二題話かなと思われた人もいたかもしれません。しかしこれは真面目な話です。


     我々の東大入学式の日にちを、さっと言える人は先ずいないと思います。昭和26年4月までは直ぐ出てきますが、日にちを覚えている人は、殆どいないと思います。16日です。
     この日は記念すべき日であって、インターネットでも直ぐ検索できます。 それは、朝鮮戦争の真っ只中で、極東軍最高司令官であったダグラス・マックアーサー元帥が、トルーマン大統領から電話一本で罷免され、アメリカ本国へ帰る日であったからです。

     昭和25年6月、突如として勃発した朝鮮戦争が、われわれも知っている通りの経過を辿って、一進一退の膠着状態になったとき、これは後年発表された事ですが、戦局を打開するためマックアーサー元帥が、1、北朝鮮国境近くの中国軍拠点の攻撃許可、2、局地的な小型原子爆弾の使用許可、を求めたところ、かねがねその意向に反対していたトルーマン大統領に、4月11日電話一本で罷免され16日の帰国になったようです。
     さて、タイトルとの関係ですが、安田講堂での我々の入学式を思い出して見ますと、先ず南原繁総長のお言葉があり(小生内容を全く覚えておりません。)、次いで矢内原忠雄教養学部長が、謙虚にも講壇上の机の前側に立ち、「皆さん、今日は歴史的に記念する日です。アメリカのシビリアン・コントロールをよく見て下さい。これが真のシビリアン・コントロールです。」と興奮気味に、手を振って言われたのが、強烈な印象として今でも脳裏に強く刻まれています。(小生それ以外のお言葉を全く覚えていません。)
     お二方とも内村鑑三氏のお弟子で、敬虔なクリスチャンであると同時に筋金入りの自由主義者、不戦論者であり、特に戦時中に軍部にほぼ自宅軟禁に近い抑圧を受けた矢内原忠雄先生にとっては、日本の軍国主義との余りにも大きな差に驚かれたのだと思います。 その後全く何事もなく後任のリッジウエイ中将が着任し淡々と事務的に進んでいったのには、私も度肝を抜かれた思い出があります。
     この入学式から40年程経ったある日、アメリカ人にこの話をすると、異句同音に「当然だ。」という返事が返ってきて、今更のようにアメリカ人の体に染み付いている民主主義の強さに驚かされました。
     その最も良く表れているのがアメリカの大統領選挙だと思います。一年半もかけて、多くの人と費用をかけて全米を回り、国民に自分の意見を訴える、それをしなければ国民が受け入れないのがはっきりしているからです。
     先日、10月6日付けで沢辺栄一君が、「近頃思うこと」という題で、民主主義の問題点の指摘をしており、同意する所も多くありました。が一方で1947年にイギリスのチャーチル首相が議会で言ったように、「民主主義ほど時間と費用のかかる制度はない。しかし今はこれに代わる制度はない。」というのが、今も生きているのではないでしょうか。ただし日本においては、民主主義の歴史が浅く問題が多くあるのも事実ですが。
     いずれにしましても、私はあの何事も合理的なアメリカが、一見非能率、不経済とも思われる大統領選挙を続ける限り、アメリカの民主主義は生きているなとさえ感じています。特に今回のオバマさん選出に際しては、それを痛感し、民主主義、ひいてはシビリアン・コントロールが完全に行なわれるのだと思いました。
     これで我々の入学式とアメリカの大統領選挙が繋がりました。

     一方、アメリカ全体を見ますと、あまりにも独善的であり、政治も経済も恰も「力は正義なり。」と言わんばかりの挙動が目に余り、苦々しく思って見ています。 特に今回の経済危機は、まさにアメリカの利益最重点主義、フリードマン型の市場自由放任経済の破綻が、全世界に100年に一度とも言われる経済恐慌を起こしているのは、まことに腹立たしい限りです。
     いずれにしましても、アメリカの経済はともかく、民主主義、ひいてはシビリアン・コントロールにつきましては、多々学ぶべきものがあり、われわれ国民全体がこれに近付くように今後も努力しなければいけないと思っています。 (11月15日記)

    5 Comments »
    1. 民主主義は民主つまり一般国民一人一人が主である必要があります。戦後民主国家になってから早60年、約2世代も経過しております。一般の人多くが自分で考えないで、マスコミの云う通りに動かされたり、人気投票しかできない状態だから民主主義が育たないのだと思います。日本人は生来付和雷同的なところが強く、隣人の顔を見ながら行動する所があるように思います。自分で考えられるようにならないといつまでたっても本当の民主主義に育たないのではないでしょうか。時間が経てば良くなるということではなく、また、形式ではなく、個人の考える能力であると考えます。その自分で考える能力が育成されることを望みます。

      コメント by 沢辺 栄一 — 2008年11月24日 @ 09:50

    2. 私の名前が出ていましたので一言
      民主主義は名の通り民主すなわち国民が主となることですが、一人一人が自主独立的に考えることの出来る必要があると思います。現状はマスコミの云う通り、また、内容でなく知名度の高さで評価され、流されているように思います。民主国家になって既に約60年、2世代も経っておりますが、形だけの民主主義になっております。日本人の付和雷同性、隣の人の動向を見ながらの行動がマスコミに流される原因と思います。最近特にそのような傾向になっていると思いますが、自分で考えることが出来るようにならなければ何年経っても本当の民主主義に育たないのではないかと危惧しております。

      コメント by 沢辺 栄一 — 2008年11月24日 @ 10:38

    3. 安田講堂での入学式のこと、全く思い出せず、新田君の説明に感謝します。今更ながら、「ああ、そうだったのか!」と感慨に耽っている次第です。それにしても、本当の戦争を知っている世代の一人として、最近の我が国の一部の風潮に、不気味な不安を感じています。

      コメント by 武田充司 — 2008年11月24日 @ 12:32

    4.  南原総長は、「全面講和論」を話された記憶があります。吉田茂首相に「曲学阿世の徒」と罵倒された後だけに、力が入っていました。
       しかし、事の正否はこの後の歴史が証明しました。「シヴィリアン・コントロール」が今尚、日本にとっての重要課題であるのとは対照的です。

      コメント by 寺山 進 — 2008年11月25日 @ 17:31

    5.  当時のことを新田君も寺山君もようぞ覚えているものだと感心しています。私は入学式も卒業式も出席したかどうかも覚えていない有様です。卒業証書など何処に保管したかも覚えておらずに、最近兄弟会の時に、家を継いだ3番目の弟がおふくろが箪笥の奥に仕舞っていたよ、と言って持ってきてくれて、ようやく自分の手元に落ち着いた次第です。いずれしても新田君当時の話を有難うございました。

      コメント by 髙橋 郁雄 — 2008年11月28日 @ 10:40

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