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  • 1953年の夏/大橋康隆@クラス1955

    岡山から上京して来た私にとって、電気科に進学した1953年の夏の黒部発電所見学は初めての大旅行であった。


    黒部1.1953-7.JPG5人だけ1日早く出発して、小諸、長野を見物して、本隊と合流した。
    掲載した写真は小諸で撮影したものらしい。前列左から中橋さん、吉沢さん、後列左から朝日出さん、池澤さん、小生である。長野では善光寺へお参りしたご利益があり、夕方パチンコが大当たりとなり、景品のチョコレートやキャラメルを袋一杯せしめ、翌日合流した仲間にお裾分けした。戦果を上げて、いい気持ちで長野駅で寝込んでいる姿の写真も出てきたので恥を忍んで掲載することにした。
    黒部5.1953-7.JPG
    黒部発電所へはトロッコで行ったが、トンネルから冷水を浴びたのを覚えている。冬は雪に閉ざされると聞いて、大変なご苦労であったと思った。こんな山の中にも、パチンコ台があったのには驚いた。奨学金と授業料免除を頂いていたので、夏休みに尾佐竹研で、吉沢さんとアルバイトをさせて頂いたのは幸運であった。NTTの旧型搬送電話装置類を再接続し、調整、検査して動作させることが出来た。この時は、物井先輩ご夫妻に大変お世話になった。
    私は、卒論は岡村研であり、NECでは真空管工場を希望したが、伝送工場に配属され、不肖の弟子になってしまった。卒業後間もなく、何をやっているのかと同窓会で仲間に聞かれても、搬送電話装置を理解できたのは秋山先生だけだった。英語でCarrier Telephone だと言ったら、大八車に電話機を乗せて運ぶのかと言われたのを覚えている。その後、アナログ、デジタル、光通信と進展し、情報も音声、データ、画像等広がって、世間の理解も深まり、不思議な気持ちがする。

    3 Comments »
    1. 私もこの旅行は忘れられない。その後、二度ほどトロッコ列車に乗りに行った。旅行会社の定番観光ツアーになっているが、川岸の景色は余り変わっていない。黒部第二、第三発電所もそのままである。
      旅行の後小林凱君に誘われ、能登半島の羽咋にある同君の実家で御母上の歓待を受けた。素晴らしく上品な母上であった。
      南雲忠彦、国頭曉両君も同行していたので、尚一層感慨深いものがある。

      コメント by 寺山 進 — 2008年10月22日 @ 13:23

    2.  この時の思い出は私も忘れられない。行きは大橋君とは一緒ではなかったが、見学が終ってから東京へ帰るまで、比叡山→京都→橿原神宮→奈良を回ったが、比叡山頂上での記念写真には、大橋君も写っている。他に朝日出君、中橋君、吉沢君(この3人は小諸の写真にも写っている)太田宏次君、大沼君と私が写っている。
       途中で人数が減って最後まで一緒だったのは、太田宏次君と吉沢武司君だったように記憶している。
       当時は新幹線など無かったから宇奈月温泉から比叡山行きも夜行列車、帰りの東京までも夜行列車だった。宇奈月温泉の桃原旅館に宿泊した記録が残っているが、京都・奈良で宿泊した旅館の記憶が全くない。それだけ年を重ねたということかなと思っている。

      コメント by 髙橋郁雄 — 2008年10月24日 @ 10:58

    3.  この旅行は私にも大変印象深い機会でした。
      念願の電気科に進学した年に、郷里に近い黒部に皆と見学に行けたのが楽しかったし、加えて幾人かの級友が能登にある私の実家に立ち寄って呉れたのが嬉しかったです。
       それに関連して、寺山君から私の母に過分のお言葉を頂戴して恐縮しています。母は91年に亡くなって居りますが、息子の級友が来て下さったのを喜んだと思います。改めてお礼申し上げます。

      コメント by 小林 凱 — 2008年10月30日 @ 09:26

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