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  • 南雲忠彦君を偲んで/新田義雄@クラス1955

     我々の敬愛する 南雲忠彦君 が逝去されてから、この10月で満15年が経つ今(1993年10月逝去)、ここに南雲君を偲んであらためて追悼の意を表したいと思います。

     南雲君とは、弱電、強電と専門が違っていたので、共通授業、昼休みとコンパ以外は顔を合わせる事が少なかったが、名簿の順序が隣り合わせである事もあり、何かと二人が連なる事があり、お互いに親近感を持っていた。特に昼休みに熱心に御殿山下グランドで野球をしたのが一層親しみを増していったのかも知れない。 また時々双眼鏡を借用してバレーなどを見たのも良い思い出である。

     彼は就職を三菱商事と異色の就職先を選び、海外駐在のため暫く会わなかったが、浜松の舘山寺で開かれた15年会(1972年開催)に出席したので、東京までの帰りを、彼の外車に同乗して、近況を聞きながら東名を突っ走って帰って来た。  

     それから20有余年経った1993年9月のある日の夜、突然国頭君(逝去されここにあらためて追悼の意を表します。)から電話があり、「南雲に会いに行ってくれ。体調が良くないんだ。」と短く知らされたので、早速翌日病院に見舞いに行った。病室に入ると、彼が満面笑みで迎えてくれ、「よう新田、よく来てくれた。下へ行こう。」とすぐ部屋を出て、エレベータで1階へ行き、あいにくロビーが混んでいたので、自販機の前に二人で座った。彼が、「いやあ、同室の患者が殆ど同じ状態なので、病状の話に聞き耳を立てているんだよ、それでここに来たんだ。」と言い「俺も腹水が一杯たまり、こんなに腹が膨れているんだよ。」といって膨れた腹をにこにこしながら軽く叩いてみせてくれた。僕は突然の驚きのため声も出なかった。彼は続けて「それで医者には、『治療は一切しないでくれ』といい、今は痛み止めだけを打ってもらっているんだ。」更に続けて「俺なあ、今 金帰月来 をやっているんだよ。」 僕は意味がわからず質問すると、「金曜日の夕方、病院から家に帰り、鰻重をとって食べるんだ、そのうまいことったらないんだ。」と満面笑みをたたえ、「そうして月曜日の朝また病院へ帰ってくるんだ。」

     僕はしばし言葉が出なかった。まだ60歳になったばかりであり、仕事にも、家庭にも、人生にもまだまだやり残しのものがあり未練もあったであろう。にも拘わらずこの動じない姿を見たとき、昔ながらの表現を借りれば、かっての武人が、従容として死に臨む姿を彷彿させるものを感じた。我々の時代は、敗戦後、まだ戦争の陰を色濃く引きずっていた時代でもあり、おたがいに触れることのなかった彼の父上(注) (とは言いながら、双眼鏡を借用したりしていたが、)の武人としての生き方がここに現れたのかもしれないとさえ思った。
     暫くして、訃報が届いた。 

     逝去後、満15年が過ぎようとしている今、あらためて心からの追悼の意を表します。
                                  2008,09,09

    (注) 1941年12月のハワイ攻撃、1942年6月のミッドウエイ海戦の機動部隊を、第一航空艦隊司令長官として空母赤城に乗り指揮をとった南雲忠一中将。 1944年7月サイパン島で戦死 大将に昇進

    6 Comments »
    1.  もう15年も経ってしまったのかと思う。国頭君からの急な電話。旧海軍病院での南雲君の言動。死に直面した彼の態度から受けた衝撃的な印象。全く同じ経験をした。
       ただ、私には「フランス料理」と言った。「自分にはパリが一番住みやすい」と言っていた事を思い出しながら、私は黙って彼の顔を見つめていた。
       この時彼は、「あと一年」と思っていた。医者がそう言ったからである。しかし、私が覚悟したよりも早く、訃報が届いた。

      コメント by 寺山 進 — 2008年9月30日 @ 07:28

    2. 南雲君については、新田君と全く同じような印象を受けてます。沖縄支店長で既に腹水がたまってゴルフ場でパットをしようとしてもボールが良く見えない時でも、悠揚少しも慌てずボールを打ってホール・アウトしていたとの話を誰か友人に聞き、彼の生に対する普通人を遥かに越えた観方に敬服して自分が同じような状況で何を考えて行動しているのかを想像して恥じた次第でした。
       彼とは昼休みに御殿下のグランドでサッカー・ボールを蹴って良く遊んだ事を良く覚えています。
       寒山寺温泉には新田君の記事のとうり、彼ははっきりとは覚えていませんが、Ford(多分ドイツのタウナスもしくは英国のゼファー)でやって来て「この車は130km/hで来たがそんな処がいいのだ」と言っていました。そして私が乗って行って、今も愛用しているBMWの1800TI(1966年型)を見て「やっぱり古くなると窓のガラスのサッシュの綻びも出るなァ」など鋭い観察力を見せてくれたのを覚えています。ちなみに帰りは富田君、大沼君などと一緒に楽しく帰京したのを思い出します。
       彼と最後に会ったのが、平成に入ってすぐ丸の内の三菱重工ビルの所で偶然に出会った時でその時は変わらぬ元気でありました。本当に”Nice fellow” で早く天国に召され残念です。
       取り敢えず南雲君の追悼に加わらせて頂きます。

      コメント by 林 義昭 — 2008年9月30日 @ 22:10

    3. 南雲君が逝去して15年、早いと思いながら改めて哀悼の意を表します。同時にそれを思い出させて呉れた新田君に感謝します。
       南雲君の入院は私も国頭君が知らせて呉れた。最初の見舞い時は元気で、新田君同様病室から出て面会してくれたが、手術はしない事にしたと落ち着いて話して居た。二度目は9月17日、可なり弱っていたがそれでもきちんと対応してくれた。その後急に病状が進んだと聞いて急ぎ見舞ったのが28日、この時は痛み止めの為か意識も悪化していたが、その中で付き添いの方に助けられて微笑(と見た)して肯いて呉れた。その後旬日を待たず逝去されたが本当に早かった。私も林君同様グランドで一緒にボールを蹴ったが、南雲君は素早かった。その元気な同君だったが、
       ご葬儀(10/8)の折に国頭君から、今日見送ってそれで終わりでは余りに淋しい、また改めて追悼の機会を持ちたいがと相談があった。その頃本郷菊坂の近くに適当な場所があり、12月19日に南雲夫人と8人ほどの級友が集って同君を偲ぶ会を行った。穏やかな日差しの週末であった。その後あの会を再びとの声が出て、会場も同じで毎年10月頃に夫人もお呼びして集ったが、南雲君の人柄に包まれた様な楽しい懇談の機会であった。しかしこの時の常連だった国頭君ももう居ない。
       南雲君は三菱商事の沖縄支店長をしていた時、この沖縄の地がいたく気に入り、当地有力企業の国場組に移って人生の後半を過そうとしていたが、残念ながらそれは叶えられなかった。1998年4月、那覇で私の関係法人の設立パーティで国場会長(当時)にお会いした時、当然話は南雲君のこととなって国場氏も本当に惜しんで居られた。私も沖縄が好きで良く行くが、今年の6月に旅行した折は車で西海岸沿いにムーンビーチも走ってきた。此処は国場組が作ったリゾートがあり、若し南雲君が元気で居たらと改めてあの南国の海を思い出して居るところです。

      コメント by 小林 凱 — 2008年10月1日 @ 14:30

    4. 南雲君については、もう皆さんがここに書いていることと殆ど同じ思い出をもっているので、ただ、彼の冥福を祈り、いい奴が早々と逝ってしまって本当に残念と言うだけです。小林君が言っている「思い出会」に一度だけ(最初の会に?)出たように思います。

      コメント by 武田充司 — 2008年10月3日 @ 15:02

    5. 南雲君の追悼の投稿に対して、ほぼ同じ思いを持つ方々からのコメント有難う御座います。逝去後15年経ち、良い追悼が出来たものと喜んでいます。
       実は、小生は南雲君とは、不思議な縁があり驚いています。と言いますのは、妻と結婚して大分経った頃、なにかの話の中で、「北鎌倉から通学していた南雲君云々ーー」と話をした時、妻が、「ちょっと待って。祖母が存命中に、北鎌倉の南雲さんの家に行くといって出掛けていたわよ。」と言ったので驚きました。祖母は、米沢で生まれ育ち、どうも南雲君の祖母?と米沢の女学校で同級生だったようです。この件について、彼に一度ちらりと聞いたが、彼は良く知らなかった様でした。最も、彼は、北鎌倉生まれの北鎌倉育ちなので無理は無いかもしれません。
       ただ、米沢は、海軍への憧れが強く、妻の祖母も養子を迎え海兵を受けたようでしたが、視力が足らず、止むを得ず、商大(一ツ橋ではなく、商船大学です。)に入り、日本郵船、常陸丸の事務長になり、折りしも第一次大戦中にインド洋でドイツの仮装巡洋艦に捕らわれ、ドイツのブランデンブルグの捕虜収容所に入れられて、その地で、27歳の若さで客死するという数奇な運命を辿ったとのことです。(この事は、長谷川 伸が「インド洋の常陸丸」として本に書いています。)
       いずれにしても、米沢、というより会津藩は、幕末から明治にかけて海軍の偉人が出て、伝統的に海軍や海への憧れが強く、そのようなこともあり、妻の祖母が、南雲家と付き合いがあったのかも知れません。
       このように、南雲君とは、小生だけでなく、妻の方も縁があり、追悼の気持ちもひとしおであります。

      コメント by 新田義雄 — 2008年10月4日 @ 17:59

    6. 初めまして。私は1958年生まれです。秋田に住んでおりましたが、母方の祖父母が大船の台というところにある、広大なお屋敷の離れのようなところに間借りして住んでおりました。表札には【南雲】とあり、あとになって南雲忠一さまのご関係のお屋敷と知りました。手元には、私と同年くらいのお嬢ちゃんと一緒に遊んでいる写真が何枚かあります。数年前、大船を訪ねてみましたが、すっかり様変わりして祖父母が間借りしていたあたりもわかりませんでした。観音が美しく見えた高台。あのお嬢ちゃんはどうしておられるのでしょう。

      コメント by 佐藤泰子 — 2024年4月6日 @ 13:48

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