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  • 塚原澄雄君を悼む/太田宏次@クラス1955

     過日、塚原君の訃報が届いたとき、私は言い知れぬ寂しさを味わった。
    彼は私の大学時代の友人の中でも特別に野人的で豪快な人物であった。大学3年の春休み、国頭暁君、塚原澄雄君と私の3人で九州方面に貧乏旅行した時のことを思い出す。


     この3人のうち最初に国頭君が、そしてこの度は塚原君が他界し、私一人が残ってしまった。誠に寂しいことである。
     
     就職先は三人とも電力会社が志望であった。就職試験のあった昭和29年秋は大変な不況下にあり、新卒の受験生にとっては極めて狭き門であった。特にこの年、東電は一人も採用しないということで、東電志望の国頭君は電発に鞍替えした。当時、電発は出来たばかりの国策会社であった。塚原君も父君が東京電力在職中ということもあって東電を志望していたが、やむを得ず転進して「日本工営」に就職した。
     
     しかし塚原君は東電に入っても工務(送変電)関係の仕事に就くことを希望していただけに、全国規模の送変電設備の建設業務を展開する日本工営に入れたのはかえってよかったのかも知れない。入社後は日本国内のみならず、東南アジアなど海外の送変電工事にも携わるようになり、実力をいかんなく発揮できた。かくいう私は、自身の出身地を管下に含む中部電力に何とか滑り込んだ。
     
     さて前記3人の九州旅行の件である。貧乏学生の冒険とでも言えようか。塚原君にも関連して旅行中のいろいろのことが懐かしく思い出される。
     九州では最初に長埼見物をした。その夜の宿のことである。塚原君の発案で節約のため、国鉄長崎駅のベンチにゴロ寝して夜を明かそうということになった。それもよかろうと横になったが、いくら長埼でも3月の夜のベンチは寒さが厳しく、身に沁みる。しかしそれもつかの間、10時過ぎに最終列車が出た後は駅舎を閉めるといって追い出されてしまった。大いなる誤算であった。
     
     そこで塚原君は次の手を考えた。九州電力の長崎支店へ行き宿直室に泊めてもらおう、というのである。われわれの心配をよそに、塚原君は「防寒用に東電のマーク入りジャンパーを持ってきたので、これを着て東電社員が出張で来たと言えば泊めてくれる筈」と自信ありげに言う。(私は半信半疑であったが)それではということで行ってみると、案の定「学生さんでしょう、そんなことを言って変装してもすぐにわかりますよ。先日もそんな人が来て泊めてくれと言われましたが、不用心この上なし。よそへいってください。」と簡単に断られてしまった。
     
      途方に暮れていると夜間工事から帰ってきた電工さんが助け船を出してくれた。戦時下、東京の中野学校で学んだことがあり、東京が懐かしいということで同情してくれたのだ。木賃宿で1泊25円だが、よければ世話をするという。もう夜も更けてどうにもならない。お願いします、ということで行って見ると戦災跡地に建てられた掘立小屋の簡易旅館で部屋の区切りには弧が吊るしてある。本当の木賃宿であった。1泊25円では仕方がない。後にも先のも菰吊るしの宿に泊まったのはこの時だけである。それでも一応せんべい布団はあり、寒さをしのぐことができた。落ち着けずなかなか眠れなかったが、旅の疲れからか知らぬ間に眠っていた。
     今でも塚原君と言えば学生の特権である貧乏旅行・・・この長崎の夜のことを思い出す。
                                             合掌

    4 Comments »
    1. 私も、塚原君の訃報に接した時に、寂しさを感じた一人です。同じ高校出身でしたので、身近の人がまたいなくなったなと。国頭、木村、塚原、元気だった3人を思い出しています。お互い健康には注意しましょう。

      コメント by 高橋郁雄 — 2008年8月25日 @ 11:05

    2. 僕も塚原君とはよく山に行ったので、いろいろな思い出があるのですが、それより前に、まだ電気工学科で知り合って間もない頃に、彼の家に呼ばれて、東電に務めていた親父さんが、東京湾で釣ってきたハゼのから揚げを作って大歓迎してくれたことを思い出します。僕は、小学校入学直前まで、彼と同じ荒川区の宮前小学校の学区に住んでいたのですが、引っ越して、隣の後田小学校に通ったため、小さい時から彼の近くで育ったのに、電気工学科で知り合うまでは互いに分かりませんでした。一緒に九州電力に入った木村君(丹さん)も亡くなり、国頭君、そして、塚原君と亡くなり、元気な電力屋仲間は太田君、森岡君の2人だけになってしまったのは本当に寂しい。

      コメント by 武田充司 — 2008年8月27日 @ 12:46

    3. 先ほどのコメントの追加:生き残り電力屋仲間で大切な人、中林君を忘れていました。「おい、武田、お前、なに言ってんだ!」と、中林君に、例のどすの利いた大声で、叱られそうで、首をすくめながら、これを書いている次第です。

      コメント by 武田充司 — 2008年8月27日 @ 18:10

    4. インターネットで検索していて、偶然にこのブログを見つけたので書き込みさせて頂きます。突然で申し訳ありません。
      私は、塚原澄雄の次男で塚原啓二と申します。
      父は生前、あまり自分のことを話してくれませんでしたので、こちらで読ませて頂いた内容は全て新鮮で、初めて知るエピソードばかりでした。おかげ様で私の知らなかった父を知ることができました。ありがとうございました。
      最後になりますが、父の葬儀の際には暖かいお心遣いありがとうございました。この場をお借りしてお礼を申し上げます。

      コメント by 塚原啓二 — 2008年9月4日 @ 22:51

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