研究入門と変遷/東口 實
区>会員, 記>温故知新 (class1953旧, おおすみ)
私は、旧制(戦前の学制)の最後で旧制高校3年を経て大学に入学し3年で1953年に卒業しました。戦後のこととて、同級生には 中学4年修了で入学した者から海軍大尉(高校では先生と中学で同級)まで居て、10歳の差は当たり前という時代でした。勿論戦前は入学に5年費やしたなどという旧制高校生もいたわけですから。
大学に入学しても結核が多く現在の癌と同じような病気の扱いでした。私も数年おいて2度ほど寝込み、家で学部の卒業論文の問題を解いては、朝、第1時限の前に阪本先生に見て頂きました。大学院特別研究生の端に加えていただいて、宮川先生と机を並べて、脳波の増幅器、信号波形の解析は?など、交流電力の50Hz雑音の影響を除去するには?を考えていました。この中で、雑音の中の規則性信号として微弱信号を増幅検知できるという、宮川先生の着眼と結論を今でも思い出します。
1958年に航空研究所が再開し、航空電子機器が重要と、電気関連部門が増強され、参加することになりました。田宮先生、岡田先生、丹羽先生、沢井先生のもとで航空機搭載ドップラーレーダー速度計を取り上げた研究の一員としてアンテナを水平に保持するサーボテーブルを分担することになりました。テーブルを駆動するモータ作動用の電力増幅器は、と磁気増幅器を取り上げました。やってみると、停止させるときのエネルギー吸収ができません。そこで停止状態では正弦波電圧の最大点で位相が逆転する波形(周波数が2倍になる)の磁気増幅器を提案しました。使えるか? とやっているうちに磁気増幅器とは縁が遠くなりました(電力用半導体素子の実用化もあって)。
宇宙航空研究所の発足(1964)に伴って、ロケットのお手伝いが始まりました。科学衛星(おおすみ、1970)の実現に向けて、軌道高度に到達させた衛星を水平方向に加速し軌道投入する。この加速最終段ロケットの姿勢を予測方向に制御するシステムの実現が求められたわけです。最終段姿勢は、ロケット機体の運動にかかわらず一定の方向を保つジャイロスコープのローターを発射直前に設定しました。ロケットの1段目はスピンして推力方向を安定化して飛行、第2段はそれを受け継いで軌道高度まで到達する。最終段の姿勢を姿勢基準ジャイロスコープのローター方向に一致させたあとロケットに点火して衛星を軌道投入速度まで加速し、切り離して人工衛星を実現するわけです。
姿勢基準ジャイロスコープのローター方向(ジンバル角)はロケットが発射台上にある状態で、予想投入方向に設定します。当時出来たばかりの小型コンピュータのプログラムを作りました。作業時間の制約を考えて、“テーブルと内挿計算法”による三角関数サブプログラムまで書きました。今では“なぜ?”と言われるでしょうが、すぐあとで、リアルタイムのサブプログラムが可能になりました。一方ではH2O2ジェットを使った制御部分の動作試験を研究所内の車庫で進めるなど、スケジュールに追われながらの作業をしていました。ドップラーレーダー野外試験を経験した後での実機を相手にした実験(試験)です。
内之浦の実験場の整備が進み、姿勢制御装置をK-10型ロケットに搭載して発射し、動作結果をテレメータで観測したのですが、車庫でシミュレーションして得たデータとの対応に慣れることが重要と、実験を通じて教えられました。
今でも 私の名前の検索で 出て来るようですが、人工衛星{おおすみ}実現の前のロケットで、衛星投入のための最終段ロケットの姿勢が乱れたことを、主任であった野村先生に報告する言葉など、“実験”にまつわる喜怒哀楽はなかなか忘れられません。
1970年2月11日 人工衛星第1号“おおすみ”軌道投入成功。先ず南アフリカの局で受信、その後内之浦でも受信、その後は電波が途絶えました。最終段ロケットの残り熱のために電池が不調になったためと聞いています。
その後、Lロケットに代わって、Mロケット(M4S)が実験開発されるようになり、第2段ロケットをピッチ角プログラムによる推力方向制御する(M3C)ようになりました。更に第1段ロケットもスピンフリー安定プラットフォーム(この名前も後から)を基準にしたTVC制御が採用されました(M3H)。1981年、宇宙科学研究所が発足する直前になりましたが、誘導制御系を持つM3Hロケットは安定に飛行し、衛星を軌道に投入しました。
これをもって、1964年宇宙航空研究所発足以来、航空研究所計測部の一員としてロケットのお手伝いに1段落ついたわけです。ここで、ロケットの姿勢制御装置の実験開発に終止符を打ち、その時、半ばまで来ていたファイバジャイロの研究開発に戻りました。
M3S2ロケットの実験メモ 1981年2月21日 | |
午前5時 | タイム スケジュール 開始 |
5時18分~ | 制御電気系スタート ジャイロ系ドリフトチェック |
6時15分 | ランチャー 設定 了 時間待ち |
7時50分 | IGチェック了、20分時間待ち、5分先行 |
8時10分 | H2O2(制御用燃料)注液より再開 |
8時15分 | 動作チェックなど、開始 |
8時53分 | 発射角修正 AZ 97.5°、EL 67.5° |
9時30分 | 発射 予定通り |
(+6分~20分) | 第1段TVC制御、その後 第2段TVC制御 (10Hz 程度の曲げ振動が生じた) |
9時37分59秒 | 最終段ロケットに点火 衛星を軌道に投入 あとで結果は 近地点568KM、遠地点695KM、周期97.3分 |
10時30分 | 衛星投入確認 国際標識(1981-017A)「ひのとり」 |
11時13分 ~12分間 |
衛星からの信号受信 |
11時50分 ~12時20分 |
とりまとめ、打ち合わせ、 これが東大での最後の実験となる。今後の予定など。 |
この日は、東大としての最後ということもあり、引継ぎと片付けなど終わったのは夜でした。22日の朝、皆がまだ寝ている間に出て、鹿児島発の列車に乗ったということしかおぼえていません。いずれにしても、大学では卒業前の論文審査などがあり、列車を降りると研究所へというのは毎度のことでした。今となっては、よく続いたなと他人事のようです。
その後は、ロケットとのお付き合いの間に読んだ、米国のNASAの研究レポート(NACA時代のものも航空研究所にはありました)で、航空機の航行、自動操縦、制御系の発達について読みあさりました。軽量小型の電気モータがカムリンクにとってかわり(FLY-BY-WIRE)の時代が来ていました。特に月着陸に関連して、また、レーダーで捕捉しにくい平面翼の戦闘機の操縦装置に関連してディジタル制御系を開発していました。当時では、重要で不可欠としてもなお搭載には骨が折れたと思うのですが、現在は計算機素子チップが動作監視用として殆どの装置に入っています。
初期の計算機のメモリが編み物細工であったというのはよく知られていることです。メモリの集積化も進みました。また、半導体素子の集積化(IC)の初期に、トランジスタを並べた素子を見せられました。使用する目的に合わせて不要な配線を切り、所要の能力を持ったシステム素子にするという説明になるほどと得心したのを覚えています。
アナログの連続信号の取り扱いに始まって、周波数分析から波形解析へ、道具としてディジタル信号の解析手段の発達とともに、仕事をしてきたわけです。今もなお、最初に手を出した脳波用の増幅器と その信号の解釈の問題は、思い出しています。電気通信を主役とした弱電の時代から変わらぬ問題と感じています。音声通信が視覚による通信に覆いかぶされて、人間社会における言語の疎通の難しさを過去のものにしています。
電気工学科に入学して、それまで、物理の一部分として勉強してきた電気をまともに付き合うこととなりました。身近では30燭光の白熱電球1個点灯していくらという電気料金の世界で暮らした自分が、ひどく小さく遅れたものであったと思います。現代では、いつでも、どこでも、きれいなエネルギー源としての電力が供給されています。また、時刻の違いを地球の裏側として実感できる通信系を利用しています。その上に立って、航空機で、日常的に時差ボケを起すような移動と交流がなされています。
非常に僅かな量しか手元に掴むことができない電力を、要求に合わせて時々刻々生産し、送電線で送っています。その周辺の努力をどこかに押し込んで、経済的な都合で技術の発展を調整できるでしょうか。今までの良質の電力を需要に応じてあまねく送る設備のためにどれだけの努力と汗が流されたかを、忘れているからでしょう。電力の供給には直流/交流といった所まで、あらためて商売も含めて議論するのかな。
原子力発電所の事故 ―原子炉の対策不十分― 以来、結果だけで、物理的な調査が改めてなされるのは 何故なのでしょう。水力発電所のダムと似ていると思うのですが。もともと設置地域の状態などは、設置決定の前に、機器装置の運転条件の一つとして入っているものでしょう。事故が起こったのは、想定以上の外力が加わって対応できなかったためではないのか。私は連鎖反応を阻害する物が原子炉直上に用意されていると聞いたのですが。新聞によると予備燃料棒が上段の棚の水中にありましたとのこと。???
現在、ディジタルチップが安価で容易に使われるようになり、複雑な対応が確実にできることが、人間の暮らしをよくしますが、自然から離れてよいのか。電気を扱い、システムを相手にしてきた一人として、夢想しています。
(クラス1953旧)