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  • 私が見た日本の苦悩/黒川兼行

    1.はじめに

    KurokawaKaneyuki亡くなられた岡村総吾先生が東京電機大学の学長をしておられた頃、私に、若い先生方から突き上げられているというお話がありました。分数の足し算は、それぞれ分子同士、分母同士を足して分子、分母にすると思っている学生さんにどうやって電気回路の授業をすればよいのかという趣旨でした。「分数ができない大学生」という本が出版されるより数年前の話です。私の反応は、そんな学生は入試で落とせばよい、というものでしたが、私学ではそうも行かない、というお話しだったように記憶しています。

    1970年代に日教組による問題提起があって、1980年頃から日本でゆとり教育が始まりました。しかし、1999年6月に前述の「分数ができない大学生」が出版されると、それまでくすぶっていたゆとり教育に対する批判が一気に高まって文部科学省も軌道修正に追い込まれました。それにしても、どうして分数ができないのでしょうか。大学入試に出ないようなことは疎かになるためと考えれば納得できるような気がします。また、1991年1月のドキュメンタリーでNHKが電子立国とまで言い、隆盛を極めているように思われた日本のエレクトロニックスが実は1990年頃を境に見る影もない状態になり始めていました。そして、後で詳しく述べるような経緯で、2010年2月には超優良企業トヨタの社長がアメリカ議会の公聴会で証言するという事態になりました。トヨタの危機です。

    日本はいったいどうなっているのでしょうか。どうして判断ミスを繰り返さなければならないのでしょうか。2000年に富士通を定年退職した私には人と気軽に意見交換する機会が殆ど無く、新聞や雑誌の記事やインターネットで検索して得られる玉石混合の情報を頼りに、自分で納得できる説明を模索してきました。

    今回、同窓会から投稿のお誘いを受け、自分の説明をご披露して反論をお願いしたいと文章にしてみました。これこそ真実であるなどと主張するつもりはありません。ただ、事実との乖離があれば指摘して頂きたいし、異なる解釈があれば是非教えて頂きたいと思います。なお、本文中の大学はことわりがないかぎり一般の大学を意味しており、東大を特に意識したものではありませんので、念のため申し添えます。

    2.慢心と傲慢

    判断力と推理力は精神状態に大きく左右されます。思いがけないことが起こって、気が動転すると判断力も推理力も低下することは良く知られています。同様に、慢心すると判断力と推理力が低下します。慢心というのは自分が優れていると思うことによって判断力や推理力が低下する現象のことです。気が動転している場合と異なり、慢心している人は自分が慢心していることに気付きません。周りが気付くのは、通常、その人の言動が判断力や推理力の大幅な低下を示すからです。例えば、慢心すると自分で調べるということをやらなくなります。すでに持っている知識で対処できると思うからです。悪いことは人のせいにします。自分は優れているのだから自分のせいであるはずがないと考えるからです。自負している事柄の否定につながる動きを極端に嫌います。否定されると、自分が優れていると思えなくなるからです。

    優れていると思い続けるために、もっともらしい理屈を考え出します。安易な類推をします。都合のよい数値にこだわります。表面的な原因が分かると満足して真因を突き止めようとしません。会議に依存して耳学問になります。隠れた前提に気付きません。人の命は地球より重いというような感情論を使います。一部で全部を推し量ろうとします。目標だけ示せばあとは誰かがやると思います。

    そして慢心すると、人は傲慢になる傾向があります。傲慢というのは自分の方が優れていると思って相手を見下し、自分のやり方や考えを相手に押し付けようとすることだと思います。相手というのは、通常、人ですが、仕事のこともあります。仕事の場合、見下すというのは仕事が簡単に出来ると思うことです。傲慢が嵩じると残忍になって弱いものいじめをします。

    本論に入る前に慢心して傲慢になった典型的な例を一つ挙げます。

    ある復興担当大臣の話です。大臣に任命されて慢心し、被災地の県庁に出向いた際、知事が出迎えなかったことが不満だったのでしょう。少し遅れて応接室に入ってきた知事を報道陣やテレビカメラの前で叱責し、報道陣に向かって「今の最後の言葉はオフレコです。いいですか?皆さん。絶対書いたらその社は終わりだから」と発言したのです。一連のシーンがテレビ放送され、更にインターネットでも公開されました。勿論、大臣は辞任に追い込まれました。大臣に任命されるくらいですから、通常は判断力も推理力も人並み以上であった方と思います。しかし、テレビカメラの前でこんな発言をすればどんなことになるか分かりそうなものですが、判断力も推理力も最低です。慢心して傲慢になっていたと考えられます。

    3.ゆとり教育

    1979年にハーバード大学の先生(E. F. Vogel)が「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」という本を出版されました。これは当時、落ち込んでいたアメリカ人への教訓として書かれたもので、日本を褒めるために書いたものではありません。しかし、それまで必要以上に謙虚にしていた日本人は表題だけを見てすっかり有頂天になってしまいました。日本全体が慢心してしまったのです。これが日本の苦悩の始まりでした。どれくらい慢心したかは、長期信用銀行本店ビルをみても分かります。なんの必要もないのに、奇を衒う構造です。中国の言い伝えでは不吉を表しているそうです。長銀はその後破綻、ビルは所有者を転々とかえて2年ほど前に解体されました。日本の偉い方(社会的地位の高い人)は自分たちが日本を牽引してきたと傲慢になってしまっていたのです。

    「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」を読んでみると、日本の基礎教育は優れているけれども、大学教育は問題でアメリカは日本の大学の真似をしてはいけないと書いてあります。具体的には教授陣が教育や学生のためにあまり尽くしていない。学生は入試以前に較べて入学後殆ど勉強しない。授業では厳格な解析がなされず、出席率も低い。大学が学生一人当たりにかける費用は極端に少なく、研究の質も量も限られている。大学入試のために高校生は課外活動を制限せざるを得ず、社会に馴染めず、入試に失敗すると精神的に落ち込んでしまう、などです。正確に日本の大学の欠点を指摘していたように感じます。問題はこの指摘が35年経った今日でもほぼ通用することです。

    例えば、日本の大学の学生さんは殆ど勉強をしません。例外があるとは思いますがこの本が指摘している通りです。国立教育政策研究所が2013年の年末から2014年初頭に実施したアンケート調査でも大学生の勉強離れは鮮明だそうです。私自身が学生だった時も、会社の現役として新入社員から聞いた大学の様子も、そして最近大学生になった孫の場合も、全く変っていません。可哀想になるくらい試験勉強をしていた高校生が大学に入ると、運転免許をとったり、家庭教師のアルバイトをしたり、旅行をしたりして大学の勉強をしないのです。皆がやっている通りにやっているのだそうです。そういえば、小柴昌俊先生も「やれば、できる。」という著書の中で、学生時代にアルバイトで明け暮れしていたような記述をされています。これに対しアメリカでは、大学に入ると急に勉強が忙しくなって、高度な判断力や推理力はその時期に養われたと感じると聞いています。

    ノーベル賞を受けアメリカ在住の根岸英一さんは、ペンシルバニア大学の授業を、同じ教科書を使った東大の授業と比較して、月とスッポンと表現しています。更に日経の私の履歴書では、「一から綿密に論理展開を解説してくれ、教えてもらった内容がそのまま身に付いたと感じた。」と書いています。学生さんが勉強する気になるような懇切丁寧な授業になっていた様子が窺われます。小、中学校の教育に問題があっても、アメリカの大学ではモノを考える力が付くような授業をしているのです。講義以外でも教室内での討論、沢山の宿題、実験の適切な指導などを通して学生さんたちの考える力を養っているのではないでしょうか。その上、アメリカの先生方は学生さんから遠慮のない質問をひっきりなしに受けて、自分の教え方を常に改善しています。

    ところが「高等教育も大事だが小、中学校に問題がある。モノを考えるという教育ができていない。」というのが、1990年頃の日本のある有識者会議の結論です。「東京大学第二工学部の光芒」という本に載っていました。後述するような理由で、モノを考えるという教育ができていないのは主として日本の大学教育と暗記物中心の大学入試のせいだと思うのですが、小、中学校のせいにしてしまったのです。日本の大学教育を牽引してきたと自負していた偉い先生方が自分たちのせいだとは考えたくなかったのでしょう。企業の偉い方は大学の先生方に追従したように思います。小、中学校の先生は、多分、呼ばれていませんでした。

    小、中学校では、教わることが多すぎて考える暇がないのだから、教えることを減らせばモノを考える余裕ができる。小、中学校で教えたことのない偉い先生方がこんなふうに安易に考えたのだと思います。1980年頃にはじまり、1990年頃に偉い先生方による強力な後ろ盾を得たゆとり教育は、分数ができない大学生に象徴される小、中学校教育の崩壊という結果になりました。冒頭で述べた岡村先生のお話しのように、大学の授業もままならなくなってしまったのです。実際に大学で授業を行っていた先生方から強い反対が出て、ゆとり教育そのものは収束に向かいました。しかし、全力を尽くして一番になるというような向上心は失われたままになってしまいました。現状では、日本人は横綱にもなれません。

    ゆとり教育を推進した偉い先生方は小、中学校に問題があるという仮説に飛び付き、一応なんとか機能していた小、中学校の教育を駄目にしてしまったのです。1989年に改訂された学習指導要領で、1.自ら学ぶ意欲を育成する、2.総授業時間を短縮したままにする、3.教える内容を減らす、と全国の小、中学校に指示しました。

    乳児は、普通、教えなくても時期が来れば2本足で歩けるようになります。しかし、自主的に九九を覚える児童はまずいません。一般の子供のこういう習性と無関係に出された 1.自ら学ぶ意欲を育成するという指示は教育現場に混乱をもたらしました。熱心に教えれば詰め込み教育といわれます。教えてはいけない、教師はあくまで支援に徹しなければいけないと受け止められました。したがって、ゆとり教育のもとでは九九ができない中学生も珍しくなくなりました。2.総授業時間を短縮して得られた余裕は思考力向上に使われる筈でした。偉い先生方が子供の頃は、近所の子供と仲良く遊ぼう、川で鮒を釣ろう、山で兎を捕まえよう、と遊びに結構頭を使っていたのだと思います。頭を使わなければ、近所の子供にいじめられてしまいます、魚は釣れません、兎に逃げられてしまいます。しかし、ゆとり世代では殆ど工夫の要らないテレビ視聴の時間が増えるだけに終わったのではないでしょうか。そして、3.教える内容を減らす代わりに、教えたことは確実に身に付くように教えてくれると偉い先生方は信じていたのだと思います。しかし、言うは易く、行うは難し。ペンシルバニア大学の先生のように身に付く授業をするスキルを獲得するためにはそれなりの文化(企業文化や文化革命の文化)が必要です。文化???と思う方は、ニューヨークの幼稚園で子供が英語をしゃべっているのは何故かと考えてみて下さい。誰もがやっていることは見よう見まねで自分もやれるようになるのです。当該スキル獲得の文化がない所では十分な時間をかけた研修が必要です。全国にそれぞれ約2万2千と約1万ある小、中学校の先生方が当該スキルを持ち合わせていると仮定して、研修なしに指示を出したとすると、普通ではとても考えられない判断ミスです。さらに、学習指導要領からは自ら学ぶ意欲の育成法も思考力を試験する具体的な方法も読み取れません。つまり、小、中学校の先生方は目隠し運転を強いられていたのです。いづれにしても、新しい学習指導要領にあわせた十分な研修が必要でした。こういったことに気付かなかった偉い先生方は偉くなって慢心し、判断力も推理力も低下していたと考えざるを得ません。大学教育の問題はそのまま残ってしまいました。

    大学の改革が難しいのは分かります。例えば、授業の改革は先生方全員が一斉にやらなければ効果がありません。数人の先生が奮起して、アメリカのような授業を行い、宿題を沢山出せば、宿題なしで容易に単位がとれる先生のところに学生さんが流れて行くからです。したがって授業の改革が出来ないのは個々の先生方の責任というよりトップ、あるいは、偉い先生方の責任でしょう。偉い先生方は 「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」 の指摘を殆ど完全に無視しておられます。

    さて、前述の有識者会議は、多分、旧制の大学を卒業された方が大勢を占めていたと思います。モノを考えるという教育を小、中学校、つまり大学以前の教育と結び付けて誰も疑問を感じた様子がないのはそのためではないでしょうか。旧制では6、5(4)、3、3ですから、大学入学は20歳前後です。新制では6、3、3、4ですから、18歳前後になります。ところが、高度な判断力や推理力の伸び盛り(Critical Period)は身長の伸びが止まる18歳前後の1年間位でしょう。そのため旧制出は大学以前に判断力や推理力が付いたように感じるので小、中学校と表現されたように思います。他方、新制では暗記物中心の試験勉強に明け暮れしているか、大学入試に受かって勉強から解放されているかで、いずれにしても判断力や推理力の伸び盛りを無為に過ごしているということになります。したがって、日本でモノを考えるという教育の劣化を薄々感じる旧制出の先生がいても、今どきの若い者は—という年輩の人の偏見であるとは断言できないのです。しかし、原因は小、中学校にあるのではなくて、伸び盛りに鍛錬できないようにしている大学にあるのだと思います。「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」が指摘しているように、日本の基礎教育は比較的良かったと思います。1960年代の話ですが、アメリカに住んでみると分かります。例えば、買い物で引き算がうまく出来ない店員さんにしょっちゅう出くわすのです。

    1989年に幼稚園教育要領も改訂されました。新しく盛られた「主体的な活動を促す」とか「自分で考え、自分で行動する」といった表現が子供たちの勝手気儘な行動を奨励すると解釈されました。このため幼稚園の運営が大きく変ったということです。幼稚園の先生方は講習会や研修会に参加するなどして、どうすれば主体的な活動を促し自分で考え自分で行動したことになるのか模索を続けました。その結果、休み時間に便所に行っておくといった躾を諦めたり、部屋から勝手に出て行く子供がいても留めるのを躊躇するようになったそうです。こうした幼稚園の卒業生が小学校に入ってくると、途端に学級崩壊が頻発するようになりました。次々に便所に行く許可を求めたり、先生の言うことを無視したり、席から離れて取っ組み合いを始めたりして、授業が成立しなくなったのです。幼稚園の実情を知らない偉い先生方が自分で調べないで幼稚園の教育を改善しようとした結果です。学級崩壊のために多くの真面目な先生が自信を失い教職から去ったと言われています。

    なお、学習指導要領と幼稚園教育要領は1998年にも改訂されました。1998年の改訂では、それ以前の改訂によって教育現場でどういうことが起きたかを調べた形跡が見当たりません。すでに持っている知識で対処できるという典型的な慢心状態で決められたものと思います。しかし、分数ができない大学生はその施行以前に起きた現象です。

    4.半導体衰退

    1970年にISSCCというアメリカの学会でインテルが記憶素子、1K DRAM(1Kは1024ビット)の発表をしました。この頃からDRAMが半導体技術の牽引役を果たすようになりました。1Kの次が4K、その次が16K、64K、256Kと続きますが、16Kの時代に後から追いかけた日本の品質がアメリカに追いつき、追い越しました。日本電子機械工業会が1980年にワシントンで開催したセミナーでヒュウレット・パッカード(HP)の講師が日米の16KDRAMの品質比較を発表しました。それによると、受け入れ検査時の欠陥率も使用中に起こる不良率も日本の3社の方がアメリカの3社より小さかったのです。ようやく苦労が報われたと日本の半導体関係者は喜んだのですが、一部の企業幹部や大学の偉い先生は、これですっかり慢心してしまいました。「日本はエレクトロニックスで世界を制覇する」「もう外国から学ぶものはない」といった趣旨のことを口走るようになったのです。これを受けて電子立国という言葉も作られました。

    1980年には半導体の大規模集積回路(LSI)でもう一つの出来事がありました。カリホルニア工科大学の先生(C. Mead)とゼロックスの女性マネジャー(L. Conway)が「超LSIシステム入門」と題した本を出版したのです。これは大学で集積回路(IC)の設計技術を教えるための教科書で、出版前にマサチュセッツ工科大学(MIT)で内容を学生に教えてみて使えることを確認済でした。MITでは学生さんたちが設計技術を教室で学んだ後、実際に自分で考えて数百から数千のトランジスタを含むICを設計しました。そして結果をゼロックスに送って露光用のマスクにしてもらい、HPでウエーハにしてもらいました。出来たウエーハはMITに送り返して、ICチップに分けて、学生さんたちに返しました。学生さんたちは自分で設計したICを検査し、実際に動作することを確認したり、不具合を検出したりしてIC設計技術と同時にデイジタル技術の理解を深めたようです。そして1981年にはMITの学生さんたちが受けたと同様なサービスを適正価額で受けられるようにMOSIS (MOS Implementation Service)という仕組みが作られました。このためアメリカでは数多くの大学でIC設計技術の教育・訓練が開始され、デイジタル技術の基礎を習得したエンジニアの数が飛躍的に増加したのです。たとえ卒業後IC設計に従事しなくても、習得した基礎はICを使った新しい商品や技術動向の理解に大きく貢献したのではないでしょうか。更に1982年にはSRC(Semiconductor Research Corporation)というNPOが作られて大学における半導体に関する教育や研究を支援しています。16KDRAMの品質で日本に追い越されたことによる危機感の現れでしょう。

    「超LSIシステム入門」では実際に設計して物を作った際に、製造過程で不良品が出ないように微細加工の設計ルールを安全側に設定しています。ICチップが動作しない場合、殆ど常に設計ミス、つまり学生さんのミス、によるとみなして良いようにしているのです。また、必要な総授業時間を出来るだけ短縮するために対象をn-MOSに特化して話を進めていると思います。バイポーラや台頭してきたCMOSに関する記述は殆どありません。こうした教育上の配慮が日本では裏目に出てしまいました。企業の偉い方が、「超LSIシステム入門」は最先端LSIの設計に使えないと低い評価しか与えなかったそうです。大学ではこの本を使ったかもしれません。しかし、実際にICを作って自分の設計のどこが良くてどこが悪かったかを知る実習がなく、教室内の講義に終わったように思います。企業側が大学に少し協力して、アメリカと同じような訓練が大学で出来るようになったのは、多分、大規模集積システム設計教育研究センターという名前の組織が東京大学で軌道に載った1996年頃だったのではないでしょうか。15年の空白期間があります。

    こうしてIC設計とデイジタル技術を体で習得した人の数が相対的に少なくなったことが電子立国の凋落につながったのかもしれません。電子機器の殆どがICチップを使っているからです。エレクトロニクスがテクニカルイノベーションの時代からビジネスイノベーションの時代へと徐々に移行していることに気付かずに、人材不足を起こした判断ミスの原因は「もう外国から学ぶものはない」といった慢心であるとしか考えられません。

    自動車などに較べると半導体の流れ作業は、工程数が数百と極端に多く、しかも目で見ただけでは各工程がうまく行われているかどうか分からないという特徴があります。その上、技術の進歩が速くて設備がすぐ旧式になってしまいます。こういう理由で、遠隔の地から指令して工場を動かすということが極めて困難です。しかし、1980年に16K DRAMでアメリカを凌駕したと思った日本は、勢いに乗って地方に工場を展開、更に他社も進出するからと海外にも出て行きました。これら遠隔地の工場を立ち上げるだけでも大変だったと思いますが、日米半導体摩擦にも対応しなければならず、各社幹部の手が回らなかったのかもしれません。

    1980年代、韓国はDRAMで日本を追いかけていました。日本の良いところは日本から、アメリカの良いところはアメリカからというように、世界中から最も優れた装置とノウハウを導入し、各工程がうまく行われたかどうか、作業をした人が自分ですぐ分かるようにしました。その結果、1990年代の初頭には日本よりはるかに高歩留まりでDRAMを生産するようになっていたのです。しかし、日本は気付きませんでした。DRAMで日本に敗れたアメリカから半導体の装置やノウハウを導入しているとは思わなかったのです。日米半導体協定で市場原理が働かない期間だったということもあるかもしれませんが、主として「もう外国から学ぶものはない」と驕り昂ぶっていたためと思います。油断していたのです。日本を抜き去って稼いだ豊富な資金で最新鋭の装置を増強、更に稼ぎまくるという好循環に入った韓国は、日本に挽回の隙を与えませんでした。その結果、富士通で言えば、1990年代が終わる頃、DRAMから撤退と報道されました。富士通以外の日本の大企業もほぼ同時期に撤退、あるいは事業分離をしています。アメリカでGE、 RCA、ウエスチングハウスなどの大企業が、新興のインテル、TI、モートロラーなどとの競争に敗れ、ICから一斉に撤退せざるを得なかったのに似た構図です。

    1990年代の初頭から、半導体の分野で、日本はものづくりが得意という前提が成り立たなくなっていたのです。流れ作業の原理についても、人の習熟過程についても勉強不足でした。

    5.トヨタの危機

    2009年8月28日にアメリカのハイウエイでトヨタのレクサスが暴走し、他の車に接触、柵を越えて峡谷に転落、炎上して、乗っていた一家4人が即死するという惨事が起きました。それ以前から、アメリカでは乗用車が電子制御装置の不具合で意図しない急加速をするという苦情がくすぶっていました。しかし、アクセルとブレーキの踏み間違えによる急加速かもしれなかったのです。ところが、上記の暴走車を運転していた方がハイウエイ・パトロールであったため、事故の原因が運転ミスであるとは考えられません。特別に訓練を受けた人でも回避できない不具合があるという確信を人々は持ちました。更に暴走車から911番(日本の緊急ダイヤル119番に相当)に電話がかかり、女性の悲鳴で途切れる通話の録音がインターネット上に公開され、アメリカ社会に大きな衝撃を与えました。それでもリコールを決める権限を持つ日本のトヨタ本社品質保証部には事の深刻さが伝わりませんでした。社長も急加速の問題を知ったのは2009年末とアメリカ議会の公聴会で証言しています。この間3ヶ月以上もあるのです。2009年12月には、アメリカの高速道路交通安全局(NHTSA)が心配して担当官(複数)を日本に派遣、トヨタの品質保証担当者にアメリカのやり方を説明しています。しかし、これについても来たことは知っているが話し合いの内容は知らないと社長が証言したそうです。リコールのような、会社にとって重要なことを社長が把握していなかったということになります。

    NHKのクローズアップ現代によると、トヨタではリコールの問題を扱う際に社長を通すことはなかったということです。リコールは純粋に技術的な判断で行い、経営への打撃を懸念して判断が鈍るのを避けるためだそうです。尤もらしい説明ですが、経営のことで判断が鈍るようなら社長を更迭すべきだという別の考え方があることにトヨタは気付かなかったようです。

    同じようなことがそれ以前にも起きています。

    アメリカのコンシュウマー・レポートという雑誌の品質評価で、トヨタは、20年間も上位を占めるという偉業を成し遂げています。更に2004年にはミシガン大学の先生(J. K. Liker)がトヨタ絶賛の本、「ザ トヨタ ウエイ」を出版しました。しかし、同じ2004年にはトヨタの一車種のハンドルと車輪を結ぶ部品が折れて運転不能になり、人身事故が起きてしまいました。

    トヨタは部品の強度が不足していることを認識しており、新しく作る車には強度を増した部品を使っていたそうです。すでにお客様に渡った車は放置していたのです。いろいろ調査して総合的に判断した結果リコールしなかったそうですが、人身事故を起こしていないからという思いもあったと推察されます。事故を起こしてからでは遅いという別の考え方があるということにトヨタ上層部が気付かなかった、あるいは、気付いても適切な処置を怠っていたのです。いずれにしても事故以前の実績にトヨタ上層部が慢心して、判断力も推理力も低下していたということになります。

    幸い2009年6月就任の豊田章男社長はトヨタの判断力、推理力が異常に低下していることに気付いていました。2009年10月2日の日本記者クラブにおける講演でトヨタは慢心して消滅の一歩手前だという趣旨のことを話したそうです。

    年が明けて、2010年2月3日にトヨタの副社長がプリウスという車種のブレーキが途中で効かなくなるように感じる問題に関して国土交通省に説明後、記者団にお客様の「フィーリングの問題」と述べたそうです。つまり、車は安全なのにお客様が勝手に心配しているだけだというのです。2月4日には品質保証担当の役員が記者会見で同じような趣旨の説明をしました。そして2月5日に社長が記者会見で陳謝、2月9日にはブレーキの感じ方に関する詳細な説明を行いました。判断が鈍るから社長を通さないという社内の論理がようやく見直されたのです。

    2010年2月24日、アメリカ議会の公聴会で豊田社長は、会議室で報告書やデータで物事を判断するのではなく、実際に物を見ることで初めて顧客の視点から判断できる、と述べています。これはトヨタが会議に依存して、顧客に対し不適切な対応をしていたという反省から出た言葉と解釈することが出来ます。

    日本では何か問題が起きると、有識者や専門家からなる委員会が作られ、会議を開きます。委員会を作れば問題は解決に向かっていると思うためか、メデイアはしばし論評を差し控え、結論が出ると恰も問題が解決したかのように報道します。テレビ、新聞、雑誌などを通じて有識者会議、第三者会議、専門委員会などがあまりに頻繁に報道されるために、日本人は会議を開けば物事が解決するような錯覚に陥っています。トヨタは現場で現物をみて判断することを徹底し、会議依存とは最も疎遠な筈ですが、それでも会議に対する日本全体の錯覚の影響が社内に浸透してくるのを防げなかったようです。2006年頃から会議に依存する傾向がみられます。例えば、リコール委員会開催基準の完全明文化を初めて行ったと監督官庁に報告しているそうです。「フィーリングの問題」も副社長と担当役員が同じような説明をしていますから、多分、社内会議、例えばリコール委員会、の結論だったのではないでしょうか。

    こうして庶民の感覚から大きくずれてしまったためにトヨタの危機的状態が作り出されたように思います。しかし、危機のおかげでトヨタは 先ず人づくりというトヨタ本来の理念を再発見しました。

    トヨタの工場で流れ作業に不具合が起こると、現場の工員さんが流れに沿って張ってある紐を引っ張って作業を止めていました。何処で紐が引っ張られたかは工場の正面に沢山並んだ「あんどん」を見れば判るようになっており、すぐ係員が駆けつけて不具合を直し、作業を再開しました。こうして不良品が作られることを防いでいたのです。一回紐を引っ張ると、車体の組み立て工場では前後20人位、エンジン工場でも5人位の作業が止まってしまうそうです。したがって、すべての工員さんが適切な判断をしてくれなくては工場が動かなくなってしまいます。そこで十分な時間をかけて教育し、徹底した訓練をしていたのです。トヨタでは人を育てることが先で、その後に物作りが続くというわけです。ところが、リコールに関する限り人の育成が間に合わず、判断を現場に任せるわけにはいかないという理由からか、アメリカでのリコールも日本の本社で判断することにしていました。こうして基本理念から離れることにより、トヨタの対応が凡て後手、後手に回ってしまいアメリカ議会の公聴会に至ったのです。しかし、危機のおかげでトヨタは本来の理念に立ち返る機会を与えられたのです。

    それだけではありません。日本の会社には往々にしてトップの座を譲った後もその会社に留まり、意図しない影響を及ぼす方がいます。トヨタにも社長を退任した後、トヨタに留まっているお年寄りがいますが、アメリカ議会の公聴会では手も足も出ませんでした。社長はお年寄りの代わりに、総勢100人を越えるトヨタのデイラーやトヨタの従業員に見守られながら、自分で調べ、自分で考えたことをもとに証言しました。こうして大企業のトップとしての貴重な体験を積むことが出来たのではないかと思います。近年、日本の幾つかの大企業で起きたようなお年寄りと社長の確執は当分起こらず、社長が経営に専念できるようになったのではないでしょうか。これはトヨタにとっても、確執が一因となって電子立国が壊滅状態になってしまった日本にとっても本当に幸運としか言いようがありません。

    トヨタのレクサスが暴走したのはアクセルぺダルがマットに引っかかって戻らなくなったためと分かりました。事故から2ヶ月位経った頃です。自分の車を整備に出して、その間代替として借りた車で、異なる車の厚いマットが敷かれていたそうです。トヨタの対応が遅れたのは完全明文化されたリコール委員会開催基準に載っていなかったためかもしれません。トヨタはその後、暴走車で亡くなった方の家族に和解金として約10億円支払ったと言われています。また、ぺダルの戻りが滑らかでない件などで報告が遅れた制裁金として約1200億円支払ったということです。その外、NHTSAがNASAに委託して調べた結果、2011年2月8日に、トヨタの電子制御装置には欠陥なしという判定が下されました。また、円安に助けられた面があるとは思いますが、トヨタの業績は2015年3月期に最高益2兆1千億を計上するまでになりました。

    6.おわりに

    日本では、大企業の従業員が営々として積み立てた資金を幹部が海外投資してうまく行かず大損するという現象も頻発しています。三菱地所のロックフェラーセンター、NTTドコモのATTワイヤレス、そして第一三共のインドのランバクシーへの投資などです。いずれも国内での成功に慢心して判断力、推理力が低下した状態で海外投資を決定しているように外からは見えます。一番肝心な外国への投資であるという点が十分検討されなかったように報道されています。

    通常、最も優秀で聡明な方が判断ミスを犯します。検討したことについては素晴しい見解や解決策を示すのに、肝心なことを考慮に入れなかったために、結果として判断ミスになってしまうのです。周りも本当に困った状態になるまで直せません。聡明な方に論破されてしまうからです。

    電力システム改革では幸い広域系統運用機関が、広域的運営推進機関に変りました。しかし、自由化は世界の潮流に乗ってそのまま進むようです。電力自由化の検討では需要の価額弾力性の議論がすっぽり欠落しています。

    指導的立場にいるごく僅かの人が慢心し傲慢になるために日本の苦悩はまだまだ続くのではないかと思います。日本でも称賛、名誉、出世などが判断ミスのもとであることを正しく認識して頂くより解決の道はないのでしょう。

    (クラス1951)

    1件のコメント »
    1. 「ジャパンアズナンバーワン」に、梅棹忠夫先生の「生態学的史観」、渡部昇一先生の「ここに歴史はじまる」に通底する森の民の指導理念に、素晴らしい光通信技術の世界展開に有頂天になっていたひとりです。黒川先生には、この温故知新と同じお叱りを戴き深く反省し、19世紀末の基盤の流体力学から電磁気学、マッハの絶対時空間否定をへてボームのオントロジー量子力学を再勉強して学生諸君への刺激を準備しました。しかし、安田善憲先生の花粉化石年縞法でのギリシャ文明崩壊の環境再現を含め、西欧文明の悲惨な実態を「文明の環境史観」(2004)に学び、やはり、誇るべき「世界史のなかの縄文文化」(1987)などを基に、次世代の工学教育の基盤を新構築する必要性を痛感する昨今です。

      コメント by 小関 健 — 2015年8月12日 @ 07:16

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