大学の今昔 -大山松次郎先生の気骨- /関根泰次
区>会員, 記>温故知新 (class1954, 大山松次郎)
同窓会報への寄稿を求められた。電気系同窓会には毎年新たな若手同窓生が加わっているが、その同窓生を送り出している大学が法人化によって大きく変わりつつある。また昨今の大学と教員の様子を知るにつけ、大先輩であった大山松次郎先生が半世紀前に語られた警世の言葉が思い出され、我が国の大学の来し方、行く末を考えるよすがとしたい。
明治以来の我が国の高等教育は2度の大きな制度改革を経て今日に至っている。最初は戦前の帝国大学を中核とするもので国家に必要な人材を育成することを主要目的とするエリート教育であった。最初の大きな制度改革は1949年(昭和24年)に行われたがこれは各県ごとに大学を置いて高等教育を多くの人に広げることを眼目とし、いわば高等教育の大衆化を目指したものといえる。この制度改革により大学教育を受ける人の数は飛躍的に伸びたが、今世紀に入って日本の社会は着実に少子高齢化の道を歩むことになり、大学全入の時代となって大学間の競争も激化し、各大学とも一般企業の経営を見習い、生き残りをかけて争うようになった。エリート教育、大衆化教育に次ぐこの3番目の時代をここでは仮に大学の企業化の時代と呼ぶことにする。この第3番目の時代は2004年の国立大学の法人化という制度の導入によって幕を開けたことは周知のとおりである。
筆者が東大に入学したのは1950年、前年の1949年に発足した新制大学の2年目である。学部の電気工学科を卒業したのが1954年、大学院を修了して教室に入ったのが1959年、1992年に定年退官し、引き続き勤めた東京理科大学を退職したのが2006年であるから、偶然であるが上に述べた我が国の高等教育の第2期(1949-2004)とすっぽり重なる。
第3期の企業化時代に入って各大学は大衆化教育時代とは異なる様々な努力をしているが、エリート教育時代の香り豊かな教授に教えを受け現役として大衆化教育時代を過ごしてきた筆者にとって時折今の大学についてこれまでと異質なことを耳にし目にするようになった。東大はまだ比較的その影響が見られないと聞くのは幸いであるが、特に目につくのが資金集め(外部資金の獲得)と成果主義の強調である。
大学の資金集めと聞く時いつも思い出すことに筆者も大変お世話になった大山松次郎先生のことがある。筆者の記憶する限り先生がご自身でそのことを口にされることはなかったが、第二次大戦中、周囲が皆、軍の資金獲得に夢中になっているとき、ひとり軍からは一銭の資金も受け取られなかったという。当時の陸海軍の勢威を考えればこれは相当なことである。この拙文を読んでくださる多くの方には初めて耳にされる方も多いと思うので、ここではこれについての記述を二、三「大山松次郎小伝」から引用させていただくことにする。
-余談になるが、戦時中陸海軍に嘱託されなかった工学部教授は大山先生と建築史担当の藤島教授の二人だけであった。そこで戦後間もなく占領軍の命令により工学部教授の適格審査が行われた際この両先生が審査に当り、委託研究を行った教授・助教授はすべて国家公務員として陸海軍の依頼に従事したのであり、戦犯的ではないと断定して工学部からは一人の不適格者も出さずに済ませた。(前記小伝4ページ)
-「私は昨日海軍の招待で、横須賀軍港で航空母艦翔鶴の進水式を観て来た。優れた装備と搭載機数の増大を可能にした新鋭大型空母であった。然し君たち良く考えて見給え。軍は、何故此の様な大鑑を作るのか?我国の現在の国力で、何処の国と戦うのか?軍の唯我独尊的な考え方は、私には納得できない。彼等に国を任せたら、君達若者の将来は暗澹たるものだ。」(同164ページ「想い出」中村誠氏)
―偶然電車でお眼にかかり、例の談論である。ところがさかんに日本陸軍の横暴を非難される、それが大きな声なのである。憲兵でも乗合せていて厄介なことにならねばいいがとハラハラして聞いていたことを今に妙に印象深く覚えている。(同222ページ「大山さんを偲ぶ」堀越禎三氏)
大学というところは言うまでもなく学問の府であるはずで、筆者の東大入学時の総長であった南原総長は「大学は学問をするところであって就職の世話をするところではない」といっておられ、周囲もそれを不思議とも思わなかったが、今の大学で胸を張ってこのようなことを言える大学経営者がどれくらいいるであろうか?受験生集め、その為の熱心な就職先の開拓も結構であるし、外部から研究資金を獲得するために一つでも多くの論文、一冊でも多くの著書をという力学が働くのはある程度やむを得ないとも考えられる。幸か不幸か筆者はそのような経験はしないで済んだし、電気工学科ではないが某教室のK教授は研究室の人に「論文など書くな、本などはもっての外である。そんな時間があったら考えろ。」と言われたそうである。それでもその研究室で配布される研究メモは世界的な注目を浴びていたというから、K教授のこの言葉は研究の成果は論文の数などで計れるものではないということであろう。実際、昔は論文を書かない(本当に立派な)大先生もおられたそうで、筆者が直接ご指導いただいた福田先生も「論文を目方で計りましょうか」と冗談を言われていたことがある。
成果主義は考え方としては勿論非難すべきことではないが、大学経営面はいざ知らず、教育や研究の場では企業における成果主義が必ずしもうまく機能するとは限らない。この問題は論じ始めると相当の時間を必要としようが企業の成果主義と大学の成果主義は必ずしも同じではないこと、真の研究能力、研究成果を図るものは論文だけでないことは確かと思う。
大山先生の例でも、K教授の例でも当時の東大全体から見れば特殊例であり、大学全体がそのようであったという訳ではない。多くの人は両先生の主張、振る舞いとは反対の方向に向いていたのであろうが、大切なのは世の中の流れ、動きに惑わされず、世情に迎合することなしに多様な意見、行動を包容する寛容さを東大が持っていたということである。そしてこのことは後世に伝えるに値する、また他に誇りうる貴重な資質と思う。実際、判りきったことであるが、大学はあらゆる資源を動員して特定の目標に向かって突き進む企業とは本質的に異なっている。大学の企業化が進み、得てして民間企業の経営ノウハウがそのまま大学経営に導入されつつあるかに見える現状を目にするとき、改めて大学における多様性を尊ぶ精神とそれを支える寛容さの必要を感じるのである。
(東京大学名誉教授、クラス1954)