ITと進歩史観/坂井修一
ITの世界には、「指数関数伝説」と呼ばれる恐ろしい経験則があります。曰く「メモリの容量は3年で4倍になる」(ムーアの法則)。曰く「コンピュータの速度は60年で100万倍になった」。曰く「インターネットのホストの数は毎年1.7倍になる」。曰く「イーサネットの速度は30年で1000倍以上になった」。
こうした速度や容量や数の進歩がそれ自体ですばらしいものであることは、小生などの言を待ちません。安価で高性能・低消費電力のパソコンや携帯電話が世の中で広く使われ、インターネットを介して映像を含むさまざまな情報がやりとりされる基盤がここにあります。ITはかつてない便利さや地理的平等を人間社会にもたらしました。
一方で、こうした進歩が人間社会の進歩であるかどうかは、かまびすしい議論があるところです。自殺サイト、学校裏サイト、個人情報漏洩、サイバー攻撃、違法コピー、悪質出会い系サイト、システム障害による交通機関や東京証券取引所の機能停止、など、ITは数多くの社会問題を生んでもいます。
小生なども最近、技術の問題にかぎらず、行政や教育などさまざまな分野の方々と「情報社会の進歩」について議論する機会をもつようになりました。たとえば、文部科学省の初等中等教育の方とお話しすると、「2004年に起きた佐世保の女児殺人事件のショックは大きかった。電子掲示板利用のマナーなどは小学校低学年から教えておかなければいけない」などといった言葉が聞かれます。
ITの世界では、「ドッグイヤー」という言葉もあります。犬は人間の7倍の速度で歳をとる。情報技術・情報社会も、従来の人間社会の7倍の速度で進んでいく。そういう意味です。われわれITに携わる者は、この「ドッグイヤー」という言葉に自分たちの技術についての誇りを覚えながら、同時にいろいろな意味の不安も感じてきました。
米国のテレビ番組「スタートレック」では、貨幣経済も生存競争もなく、人々がもっぱら人格の陶冶のために人生を送るという24世紀の世界が描かれています。現実のわれわれがこれに向かって歩みを進めているとは、21世紀の今日、誰も思っていないでしょう。
小生など、「ITの進歩を人間の進歩とする」という大目標に向かって、非才をかえりみずにドン・キホーテ的な試みを続けているわけですが、研究教育の合間など、「いったいどうなれば、『人間が進歩した』と言えるのだろうか」と考えこまないでもありません。
たとえば、『イーリアス』『源氏物語』『リア王』を凌駕する近代文学は皆無と言われています。『モナ・リザ』やレンブラントの自画像を超える近現代の絵画もまず見あたらないでしょう。モーツァルトやベートーベンの音楽など、ここで持ち出すまでもないかと思います。
文学芸術に限らず、「人間の進歩」の本質は、速度や量ではなく、純粋で深い洞察力と、単純で力強い構築力と、きわめて広い意味のモラルにあるように思います。これをもたらすITとはどういうものでしょうか。