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  • 薪と灰 -禅におけるTPOの話/鳥越寿二(クラス1959)

    嘆くとも 無常といふは絶え間なく あらゆるものが新たまること

    身と心万象森羅みなほとけ 和を貴びて生きたく思う

    ◇仏教は身近な道理や深遠な教えを、誰もが納得できるような事柄から説き明かしており、歳を重ねるにつれてその偉大さが分かり、信奉するようになってくる。シャカが渾身で会得されたその中味を、不肖な私が言葉で書き表すことはとても出来ることではないが、学者はその全体を「諸行無常」、「諸法無我」、「涅槃寂浄」という三つの特徴と、その奥にある「因果縁起」の理法即ち「空」という概念にまとめている。

    これらの仏教用語が日常生活の中で自らのこととして実感され、自らの行動に結びつくようになることが、人が「善く生きる」ということであろうと思う今日である。(用語については文末に付録として掲げた。)

    ◇並みはずれた人間性の持ち主であったシャカ(BC463~BC383ころ中村元氏説)は、それまでのインド思想や習俗に飽き足らず、苦行を重ねたのち最終的には静坐を通して、人としての完成の世界に到達した。大悟のあとシャカが人々の求めに応じて、どのようにすれば自分と同じようになれるかという要訣を教えたものが仏教だといえる。それは身近な譬えを使った法話とか、弟子達と共にする作務や坐禅であったようである。仏教はこのようにして弟子達からその弟子達へと、国境や時代を超えて伝えられ今日に及んでいる。

    ◇シャカから数えて第51代目の弟子に当る日本の道元禅師(1200~1253)も、多くの説話を残しているが、その中で「薪と灰」の話は、一昨年の東日本大震災を経験した我々とっては一入、仏教の核心をつく教えのように思われる。以下にその原文(正法眼蔵第一 現成公案の一部)と現代語訳(水野弥穂子氏 )を載せる。

    たきき、はひとなる、さらにかへりてたききとなるへきにあらす。しかあるを、はひはのち、たききはさきと見取(けんしゅ)すへからず。しるへし、たききはたききの法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへとも、前後際断せり。はひは はひの法位にありて、のちありさきあり

    (薪が燃えて灰になる。その灰がもう一度薪になることはない。 このことを、灰は薪の後の姿であり、灰の前身は薪であると極めつけてはならない。よく理解しなさい。薪は薪のあるべきあり方にあって、前〈樹木から伐られた時〉もあり、後〈燃料となる時〉もある。前も後もあるのだが、前と後はまったく別の存在としてあるのである。灰は灰の法位にあって、〈畑の肥料になるなど〉後のあり方もあれば、〈燃えた直後の〉前のあり方もある。)

    ◇痛ましい東日本大震災と重ね合わせて、静かにこの文章を読んでみる。

    「薪」と「灰」の関係は、例えば被災する前にあった「ビル」が地震・津波によって「がれき」になったことに当てはまる。

    先ず「ビル、がれきとなる、さらにかへりてビルとなるべきにあらず」。これは「諸行無常」ということであろう。問題はその後に「しかあるを、がれきは後、ビルは先と見取すべからず。」という意表をつく言葉が出てくることである。ここに仏教独特のものの見方が表明されているのであるが、その意味を解くカギはその後の「ビルはビルの法位に住して先あり後あり。」という言葉にある。「法位」という語は、広辞苑などにも載っていないが、この世界に存在する「諸法」(あらゆるものごと)の中にあって、「法」(一つのものごと)がたまたま存在している「ありかた、位置づけ」といった意味のようである。和製英語に「TPO」(Time, Place, Occasion =時、所、状況)という言葉があるが、道元がここでいっている「法位」は、それに近い語感であると思う。

    ◇「ビルはビルの法位に住して先あり後あり」

    ビルというものは、具体的には事務所とか工場とかであるが、ビルは周りのものと関係のない独立した存在ではない。ビルは土地の上に建っている、土地があってこそのビルである。そして人が出入りして会議が開かれたり、中で物が作られたりしている。その時その時周りとの相互関係があって、色々な働きをしているからこそビルである。又ビルそのものの設計や施工の影響が後日になって現れるといったような、過去の原因が後に結果として現れるような現象もある。地震・津波でビルが「がれき」になったことは、悲痛な変化に違いないが、その前にもビルは不断に変化していた。この「無常」こそがビルをビルたらしめている。そのことを考えると「がれきは後、ビルは先と見取すべからず」は「がれきになることだけが、ビルの変化ではない」ということに気付かせようとしている言葉と読みとれる。

    それだけではない。当然のことながらこの世界では、ビルだけでなくあらゆるものが変化している。家屋、田畑、道路、山、海‥‥そして陸や海の下の地殻やそれを構成しているプレートも、互いに関係しながら常に変化している。「がれきは後、ビルは先と見取すべからず」は、「ビルのみが先でがれきのみが後という、視野狭窄に陥ってはならない」の意でもある。

    これがシャカが教えるものの見方である。人の目が何かに向かい、何かを観察し体験するとしても、それはあらゆる物事が互いに原因となり結果となり合って変化しているという、疑うことのできない真実の中のほんの一部だということに気付かせようとしているのである。

    ◇次の「前後ありといへども、前後際断せり。」という言葉にぶつかった時、私は子供の頃、活動写真で遊んだ時のことを思い出す。フィルムに「忠臣蔵」だったかの一コマ一コマが描かれており、ハンドルを回すと登場人物が動くのが見られる。「薪と灰」で説かれている「前後際断せり」は、この写真の一コマ・一コマを世界全体、大きくいえば宇宙の果てにまで拡張したものを「同時の世界の一コマ」としてイメージさせ、全体として新しいコマへ次々と移っている世界観を与えてくれる。ただここで「同時の世界」という言葉を使ったが、今の科学的知見によれば、1km先の山の姿は、厳密には30万分の1秒(3.3マイクロ秒)過去のものを見ているのであり、1億5,000万kmばかり彼方の太陽から受けている光は、実は8分ほど前に太陽から発せられたものである。

    「物事は互いに原因となり結果となり合って存在している」という現代科学にも通じる因果の道理が仏教思想のベースとなっているが、原因からその結果や影響が出るには「時間」が必要である。目にものが見えるという光の伝搬においてさえ距離によって所要時間にバラツキがある。生命現象になると、種子から芽が出、茎や葉が繁り、花が咲いて新しい果実を結ぶ迄にはかなりの時間が必要である。人間関係や社会現象の領域では、原因と結果の関係にしても、原因から結果までの時間にしても、それは極めて複雑多岐にわたることである。

    ここにおいて「前後際断せり」という意表を突く言葉には二つの意味が込められているように思う。先ず世界は「全体として」前から後へと変化している。観察者たる人がプロセスを単純化して、原因である種子から結果である果実へ一筋に動いているように見たとしても、それは偶々世界の状況がそのプロセスの進行に適わしい条件、即ち「縁」を提供していたからである。「一寸先は闇」というのはこの「前後際断」ということを端的に表している言葉であろう。

    二つには、活動写真ではフィルムを一時的に停めたり、繰り返して見ることもできる。しかし現実の世界では、過去に再び戻ることは絶対にない。「前後際断せり」で常に新しい今が現れてくるのである。これは100数10億年前といわれるこの宇宙の誕生から現在まで、一瞬たりとも絶えたことのない事実である。

    ◇私はこの「絶え間なく新しい現在が現れてくる」という感覚こそは、大きな災害に遭遇しても、人々が悲嘆の気持ちを断ち切って、前向きに生きて行く気力を生み出す源ではないかと思う。そしてシャカの大悟が他の思想や宗教を超越しているのは、この無常・無我、因果・縁起の道理を、自分が見ている対象の事実としてだけではなく、それを観察している当の自分自身にもあてはまる真理だと目覚めたことである。この時、周りと自己との間に、何の隔てもない一体意識が醸成されるのである。

    人の生命の源は両親から授かった遺伝子であり、空気や食物を始めすべて周りのものによって人は生かされている。その点では草木や山水と同じである。又自分自身が周りの他者に直接・間接に影響を与えている点でも、自然物と異なるところは無い。

    しかし人は山水・草木とは違って、喜び、悲しみ、記憶をし、考える。自分の意思によって行動する。‥‥それでは、記憶をし、考え、自分の意思によって行動する人間の行動は如何なるものであるべきか。

    実は数多の仏典はこの問いに応えるために今に残されているのだと思う。そしてシャカ以来伝えられてきた坐禅などの正しい修行を入口として、我々現代人もその中味を自らのものとすることができるのだと思う。

    原始仏典によれば、シャカは当時のインドで説かれていた因果という道理を、人道の基本として受け入れながらも、因の根源を創造主たる神などの力とする「尊祐説」や、因果を物質的にのみ見る「唯物論」、因を外在的で宿命的な力とする「宿命論」などを厳しく退けることから出発している。

    シャカが教えるところは、現代科学にも通じる「因果」というものに対する極めて理性的な理解であり、「人間の努力による因果形成」という根源的な倫理である。

    人に苦悩や不安が襲って来ることには原因がある。それは何ごとであれ、自分を中心としてものを見、考え、判断しているからである。即ち自我・自意識こそが苦の原因である、とシャカは言う。心を静めて己と周りのものとを一体のものとして、我執を離れた素直な心持ちになる時、己を苦しめている問題はスーッと消え去る。‥‥

    ただ、これは根本的なパラドックスを含んでいる。我執や自意識をなくした「己・私」というものは、そのこと自体自己矛盾ではないか。‥‥

    日常的にはそのような「己」は存在しない。シャカの説く世界は、人智を超えた非日常的な世界である。非日常的とはいえ、それは厳然として存在する。16世紀のコペルニクスの地動説がそれであり、上に述べた「薪と灰」の話は、そのような真実の世界に入るための、ものの見方の一例を与えるものである。

    ◇道元禅師が「三歳の小児にも言えることながら、80歳の老翁も行ずること難し」と喝破している「諸悪莫作」の一節は、仏教倫理の核心を端的に述べているように思う。(正法眼蔵第三十一 諸悪莫作)

    諸惡莫作(まくさ)、衆善奉行、自淨其意(ごい)、是諸仏教

    (もろもろの悪をしてはいけない。もろもろの善は大切に行いなさい。そうすると自ずとそのこころを浄めることになる。これが諸仏の教えである。)

    この言葉「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」は、最初期の仏典「ダンマパダ(法句経)」にも載せられている一節である。人は幸せを求める。幸せとは煎じつめてみれば、心が一切の悩みから解放されて、浄らかな状態になっていることをいうのではなかろうか。「悪いこと」をしないで、「善いこと」をすると、「自ずと」そういった幸せを会得することができる。

    3句目の「自ずと」が偉大である。善・悪の行為と浄らかな心(幸せ)との間の因果を説いているようであるが、その因果をも超越した体験的真理である。人は「幸せを得るために」、悪を抑え、善行を積む。‥‥それはそれで正しい。

    ただ一切が「無我」であると知り、この私も「無我」に徹するときには、私は「自ずと」悪を作さなくなり、善を行ずるようになり、心が浄らかになって「自ずと」至福の者となる。これがシャカによって明らかにされた「人の仏性」というものであり、弟子達を通して今に伝えられている仏教であると思う。

    ◇それでは「悪」とは何か。

    仏教では最初期より悪とは次の「三毒」であると見抜いている。

    • (とん):むさぼること
    • (しん):怒ること、憎むこと
    • (ち):無知であること、道理を解さないこと

    この「痴」こそが「貪」、「瞋」を含めた諸悪の源であるとされる。自分中心で、無常・無我、因果・縁起の道理を知らない、知ろうとしないことである。

    ◇それでは「善」とは何か。

    初期の師弟集団の頃より、発心した弟子たちに対して、一切の人々を救うための徳ある行動として、次の四摂法(ししょうぼう)が教えられている。

    • 布施(ふせ):与えること
    • 愛語(あいご):やさしい言葉をかけること
    • 利行(りぎょう):相手のためになる行為をすること、人のみでなく草木山水にも
    • 同事(どうじ):相手と同じ立場に身をおくこと

    最後の「同事」は、相手・周りと自分の間に隔てを置くことがないこと、一体感をもつことである。この「同事」が自ずと「布施」、「愛語」、「利行」の源となる。

    ◇東日本大震災で物質的に失ったものは測り知れないが、仏教が教えてきた「布施」、「愛語」、「利行」といった善行があちこちで聞こえてくるのは心温まることである。私自身相応のことしか実行できていないが、災害が契機となって、人々に仏教の崇高で深い心が蘇り、国や世界を照らす灯となることを願うものである。(2013. 5. 9)

    付 用語(岩波「仏教辞典」など)

    諸行無常

    諸行とは、すべての作られたもの、あらゆる現象の意。仏教では、われわれの認識するあらゆるものは、直接的・間接的なさまざまな原因(因縁)が働くことによって、現在、たまたまそのように作り出され、現象しているに過ぎないと考える。ところが、いかなる一瞬といえども、直前の一瞬とまったく同じ原因の働くことはありえないから、それらの現象も同一ではあり得ず、時の推移とともに、移り変わってゆかざるをえない。この理法を述べたものが〈諸行無常〉である。すなわち、あらゆる現象の変化してやむことがないということ。人間存在を含め、作られたものはすべて、瞬時たりとも同一のままでありえないこと。

    諸法無我

    諸法とは、われわれの認識の対象となるあらゆる存在を意味し、また我とは、ある存在をそのものたらしめている永遠不変の本質を意味する。いかなる存在も不変の本質を有しないこと。すべてのものは、直接的・間接的にさまざまな原因(因縁)が働くことによってはじめて生じるのであり、それらの原因が失われれば直ちに滅し、そこにはなんら実体的なものがないということ。したがって、われわれの自己として認識されているもののもまた、実体のないものでしかなく、自己に対する執着はむなしく、誤れるものとされるのである。

    涅槃寂浄

    煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂浄)であるということ。

    因果縁起、因縁

    原因と結果の併称。すべてのものは原因があって生じるという理法の意では因果と縁起は同じ。因縁は仏教思想の核心を示す語である。〈因〉と〈縁〉は、原始仏典ではともに〈原因〉を意味する語であったが、のちに因を直接原因、縁を間接原因、あるいは因を原因、縁を条件とみなす見解が生じた。そこから、因と縁とが結合して万物が生ずることを〈因縁和合〉という。

    固定的実体の無いこと。実体性を欠いていること。インドの数学において、原語sunyaは世界史上最初に発見したゼロを表す。(E. Conzeの英訳ではemptiness )

    大乗仏教の最初期の経典である般若経は、ブッダの本質を般若、あるいは一切智とも呼ばれる智慧に見た。同経は、悟りや涅槃をも含むあらゆる事物に対する無執着のあり方を〈空〉と呼んだ。

    般若経で説かれた〈空〉を理論的に大成したのが竜樹(ナーガルジュナ 150~250頃)である。

    彼は先ず〈空〉こそがゴータマ・ブッタの悟りの内容に他ならないことを縁起説との関連で明らかにしようと務めた。

    第二に〈空〉の意味内容を論じ、〈空〉は無に等しいのではなく、すべての事物が無自性にして縁起することを意味すると説いた。

    第三にまた、すべての事物は〈空〉であればこそ因果も変化も成長も可能であること、更にすべての言語表現も空・縁起を基礎とすることによって可能になるとした。

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